ロシアの女流作家というとリュドミラ・ウリツカヤを思い浮かべる方が多いと思いますが、「ほかに誰の作品を読んだことがありますか?」と問われたら、「むむむ」と唸ってしまうかも知れません。研究者ならいざ知らず、一般の読者にはほとんど知られていないというのが現実ではないでしょうか。
このブログでも、これまでに取り上げたのはポーランド出身のワンダ・ワシレフスカヤのみです。
「ロシアにはどういう女性作家がいるのか知らないけど、興味はあるなあ」という方にお勧めしたいのが『魔女たちの饗宴』(写真)です。
これは副題のとおり、現代のロシア女流作家のアンソロジーで、日本で単著が出版されているのはナターリヤ・バランスカヤ、タチヤーナ・トルスタヤ、リュドミラ・ペトルシェフスカヤくらいという、僕のような門外漢には誠にありがたい一冊です。
尤も「現代」といっても刊行から二十年以上経っているため、一九八〇年代の短編がほとんどです。それでも、ロシア文学と聞いてイメージするものより遥かにバラエティに富んだ作品が集まっており、最後まで飽きずに楽しめると思います。
また、女性作家のアンソロジーのせいか、各短編の扉裏に顔写真が掲載されているのが面白い。何となく強そうな人が多いといったら叱られるかしらん。
「重心」Tsentrovka(1987)ヴィクトリヤ・トーカレワ
自殺をしようと水を浴びて零下三十度のベランダに立っていた「私」。そこへ隣のベランダから若い男が飛び込んできます。初恋の相手に似ている彼は医師で、心臓の手術によって女性を救ったばかりでした。
「私」、医師、患者の女性とその夫が不思議なつながりで、それぞれを支えてゆきます。訳者の指摘どおり重い物語をユーモアでコーティングしているのが特徴です。しかも、そのユーモアはいかにもロシアらしいセンスで、笑ってよいのやら首を傾げるべきか、よく分かりません……。
「魔女の涙」Ved' miny slezki(1990)ニーナ・サドゥール
自分を弄んだ兵士を不幸な目に遭わせて欲しいと願った少女が魔女を訪ねます。魔女のいうとおりにしたところ……。
一見、魔女が手を下したようにも読めます。しかし、魔女が涙を流したことで、すべては少女が自ら招いた運命であることが分かるのです。
「卒業証書」Diplom(1989)タチヤーナ・ナバートニコワ
卒業製作の審査を明日に控えた女性。彼女はすでに結婚し、赤ん坊もいます。貧しさから逃れるため、早くエンジニアとして活躍したいと考えています。
迫りくる大一番までのときの流れはゆっくりで、その後、ぐんぐん加速をし、最後は亀の描写で終わります。今まで体験したことのない不思議な乗りもので旅をしたような気分になりました。
「化け物」Chudovishche(1986)ニーナ・カテルリ
「私」が小さな頃からアパートに住んでいるひとつ目の化け物。かつて化け物は悪戯で住人を悩ましましたが、最近はめっきり歳を取り、魔力も効かなくなってきました。
醜く老いた化け物を受け入れる者、よく分からずに取り敢えず従う者、排除しようとする者といった具合にアパートは社会の縮図となっています。化け物が何を表すかは読者次第ですが、社会から虐げられている弱者と考えるのが自然かも知れません。
「ライネの家」Dom Laine(1981)ナターリヤ・バランスカヤ
エストニアの保養地で下宿を営むライネ。ロシアからの客に「この村には、息子を埋めた父親がいるそうですね」といわれ、「それは民話です」と答えますが……。
第二次世界大戦中、ソ連とドイツに代わる代わる占領されたエストニアには悲惨な記憶が数多く残っています。ライネの母は、ドイツ軍に撃たれた息子(ライネの兄)を匿いつつ、医者にみせることもできずに殺してしまいました。やむを得ず兄を埋めた家に、ライネは今も住んでいます。短い枚数ですが、悲しみを背負いながらも強く生きてゆく女性を見事に描いています。
「夜」Noch(1987)タチヤーナ・トルスタヤ
精神遅滞と思しきアレクセイ・ペトローヴィチの頭のなかは不思議に満ちています。オノマトペや童話のような表現を駆使して、彼の奇妙な世界を描いています。また、ときに暴力を受けるなど危なっかしいアレクセイを見守る母親の強さが印象に残ります。
トルスタヤは、『苦悩の中をゆく』で知られるアレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイの孫です。短編を得意としており、『金色の玄関に』という短編集が邦訳されています。
「アンデルセンのおとぎ話」Skazki Andersena(1991)マリーナ・パレイ
乳児担当の実習生が目をかけていた女児が亡くなります。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『雪の女王』のようだと思っていた肌がチアノーゼによるもので、実習生はそれに気づかなかった自分たち医療関係者を責めますが……。
病院を舞台にした連作短編のひとつだそうです。女医でもあるパレイはロシアの医療の問題点を突きながら、救いのない人生を送る母親の悲哀をも描いています。
「鳴り響く名前」Zvonkoe imia(1988)スヴェトラーナ・ワシレンコ
モスクワの郵便局に勤めるナートカの寮にサーシャが訪ねてきます。サーシャは元同僚ユーリャの夫ですが、ふたりは夜を過ごし、翌日は遊園地に遊びにゆき、サーシャの家にまでいってしまいます。
独身で郵便局に勤め続けているナートカは、自分が今の境遇にいるのはユーリャのせいだと感じているようです。それでも思い切った行動に出られません。派手な友人の陰で自分を表現できずに苦しむナートカに感情移入したくなる人は多いのではないでしょうか。
「ターニャ」Tania(1995)ワレーリヤ・ナールビコワ
ドイツにいるアレクサンドル・セルゲーヴィチの元を雌犬ターニャが訪ねてきます。彼は妻と別れて、ターニャを連れモスクワに帰りますが、ターニャが雄犬と浮気するのに腹を立て、彼女を捨ててしまいます。
実験的でエロティックな作風ながら、とても読みやすい。ただし、アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンをもじることに何の意味があるのかは分かりませんでした。
「身内」Svoi krug(1988)リュドミラ・ペトルシェフスカヤ
金曜の夜になると、ストゥーリナ通りのアパートに集まり飲み明かしていた仲間たち。グループ内で離婚や再婚をし、いつの間にか集まりが消滅してしまいます。「私」も離婚をし、ひとり息子と暮らしていますが、腎臓の病で目がみえなくなり、死期が近づいていることを悟ります。
このアンソロジーの白眉です。数多くの登場人物を饒舌な長文で表現する技法、語り手や中心人物よりも寧ろ脇役を念入りに描写し、次第に核心に迫るテクニックがラストで見事に生かされます。仲間をひとりひとり丁寧に描いたからこそ、幼い子を遺して旅立たなくてはならなくなった「私」が演じた壮絶な芝居が胸を打つのです。偉そうにいうと「読む必要のある」一編です。
『魔女たちの饗宴 −現代ロシア女性作家選』沼野恭子訳、新潮社、一九九八
アンソロジー
→『12人の指名打者』
→『エバは猫の中』
→『ユーモア・スケッチ傑作展』
→『ブラック・ユーモア傑作漫画集』
→『怪奇と幻想』
→『道のまん中のウェディングケーキ』
→「海外ロマンチックSF傑作選」
→『壜づめの女房』
→『三分間の宇宙』『ミニミニSF傑作展』
→『ミニ・ミステリ100』
→『バットマンの冒険』
→『世界滑稽名作集』
→「恐怖の一世紀」
→『ラブストーリー、アメリカン』
→『ドラキュラのライヴァルたち』『キング・コングのライヴァルたち』『フランケンシュタインのライヴァルたち』
→『西部の小説』
→『恐怖の愉しみ』
→『アメリカほら話』『ほら話しゃれ話USA』
→『世界ショートショート傑作選』
→『むずかしい愛』
→『魔の配剤』『魔の創造者』『魔の生命体』『魔の誕生日』『終わらない悪夢』
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