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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『虹』ワンダ・ワシレフスカヤ

Tęcza(1942)Wanda Wasilewska

 ポーランドからソ連に亡命し、スターリンと不倫の噂があったワンダ・ワシレフスカヤは、作家というより共産主義の活動家、政治家としての方が有名かも知れません。
 また、小説はポーランド語で書かれていますが、ロシア語に訳され出版されたため、一般的にはロシア・ソヴィエト文学に含まれるようです。

 巻末の解説でも触れられているように、ジョン・スタインベックの『月は沈みぬ』とは、同じ年に出版され、同じテーマを扱っているという共通点があります。「戰争文學の中でも、この《虹》と、《月は沈みぬ》などは、全く他を壓し去つているように思われる」とのことですが、今日では、どちらも忘れ去られてしまったのが寂しいですね。
 戦争文学自体、最早読まれることが少ないのかと思いきや、集英社の「戦争×文学」という叢書が先頃完結し、そこそこ売れたそうですから、宣伝次第ではまだまだ商品価値があるような気がします。

 ただし、今も読み継がれている二十世紀前半のロシア文学者というと、粛清に苦しめられた人が多い(マクシム・ゴーリキー、エヴゲーニイ・ザミャーチン、アレクサンドル・ソルジェニーツィン、ヴァルラーム・シャラーモフ、イサーク・バーベリなどなど)。
 それに引き換え、ワシレフスカヤの『虹』は、ソヴィエト政府の機関紙「イズベスチヤ」に掲載され、スターリン賞の第一席となりました。したがって、「徹底的な悪であるファシストが暴虐の限りを尽くし、我慢強い農民たちはひたすら耐える」「ソヴィエト政府に反抗した裏切り者の村長は、村人に処刑される」といった都合のよい構図になっていたりします……。当時、ソヴィエトは、ナチスによって蹂躙されまくっていましたから、この小説は国民を鼓舞・教育するプロパガンダでもあったのでしょう。
 そして、それが、文学史に深く刻まれなかった最大の理由のような気がします。

 けれども、女性の視点から悲惨な戦争を描いたこと、独ソ戦の真っ最中に発表されたことは、大きな価値があったと思います。

 あらすじは、以下のとおり。
 独ソ戦下のウクライナにある小さな村。男たちは戦争に駆り出され、残っているのはほとんどが女性や子ども、老人ばかり。この村がナチスに占領されます。
 村のはずれに息子の遺体が転がっているにもかかわらず、埋葬を禁じられているため、朽ち果てるのを黙ってみていることしかできないフェドーシヤ。ナチの将校の愛人となったことで、村人から白い目でみられるプーシャ。パルチザンの一員でありながら、出産のために村に戻ってきたため激しく拷問されるオリョーナ。銃殺された幼い息子の遺体をこっそり奪い、玄関に埋葬するマリューチハ。陵辱されファシストの子を身籠るマラーシャなどなど、虐げられつつも尊厳を失わない女性たち。
 彼女たちは、赤軍が救いにきてくれることを信じ、必死に耐え忍ぶのです。

 悲惨なできごとの連続ですから、「面白い!」といってはバチが当たるかも知れません。しかし、やたらと高尚ぶった「ブンガク」とは異なり、無骨ですが力強く、グイグイ読ませます。
 もしかすると、それは弱者であるはずの村人たちの心の強さのせいかも知れません。例えば、この小説は、以下のようなエピソードに満ち満ちているのです。

 結婚後二十年間も子どもが生まれなかったオリョーナは、四十歳にしてようやく身籠りました(夫は既に死亡している)。彼女は、ファシストたちに拷問されている最中に出産します。
 しかし、ようやく授かった息子は生後数時間で敵に取り上げられ、「パルチザン部隊の居場所を教えなければ殺す」といわれます。それでも、オリョーナは頑なに口を閉ざし、その結果、赤子は顔面を銃で撃ち抜かれ、オリョーナ自身も殺されてしまいます。

 また、銃殺された子どもの遺体を盗んだ者をみつけるため、五人の村人が人質に取られます。犯人がみつからなければ彼らは絞首刑に処されるのです。「村人たちは自分が殺されても決して口を割らないが、仲間を盾に取れば懐柔することができる」と考えた敵による作戦でした(シベリア抑留を描いた井上ひさしの『一週間』にも似たようなシチュエーションが出てくる)。
 案の定、人質を救うため出頭を決意した母親のマリューハ。しかし、夫を人質に取られた妻は、マリューハに、こう語ります。
「今日あんたが出頭すれば、若し明日何事か起こつたら、今度は五人どころじやなく、五十人の人間が捕まることになるのよ!(中略)この村じや今のところ誰一人奴等のところへのこのこ出かけて行つた者はいないし、またそれでなけりやいけないのよ……」

 生まれたばかりの赤ん坊や夫が殺されると分かっていても毅然とした態度を崩さず、仲間を売ることなど考えもしない女たち。さらに、子どもたちには「大人になって捕虜にされそうになったら、手榴弾で自分を吹き飛ばせ」と教えるのです。
 彼女たちにとって大切なのは、悲しみよりも、人としての尊厳です。その姿をみたら、憐憫の情などとても抱けません。ただただ、信念の頑強さに圧倒されるばかりです。

 さて、村人にとって唯一の希望は、味方の軍です。しかし、雪に閉ざされた辺鄙な村などに、果たして助けがきてくれるのでしょうか。
 一瞬、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』のような不条理さが漂いますが、人々の希望である正義の赤軍は、黄色い星が描かれた真っ赤な旗を掲げ、村にやってきます。そして、憎きファシストを駆逐してくれるのです。
 女たちはただ助けられるだけでなく、自らも戦います(敵の将校と刺し違えるのは、ドイツ人の子を宿したマラーシャ)。

 当時の読者は、こういうシーンに溜飲を下げたのでしょう。しかし、今読むと、ご都合主義すぎて白けてしまいます。
 せめて、もう少し遠慮がちに書かれていたら、二十一世紀になっても読み継がれる作品になっていたのに、何とも惜しい……。

 ですが、よく考えてみると、虐げられていた弱者が反撃に転じ、敵を皆殺しにするという痛快なカタルシスは、エンターテインメントにおいて大切な要素のひとつです。しかも、既に述べたように、ひとつひとつのエピソードは悲惨であるが故に、本をおけないほど夢中になってしまいます。
 ひょっとすると、今の時代、『虹』は、難しいことを考えず、娯楽小説として読むべきなのかも知れません。
 ま、五十年も前に発行された本なので、まずは復刊されるのが先でしょうけど……。

『虹』原卓也訳、新潮文庫、一九五七