La Grande Ceinture(1956)René Fallet
ルネ・クレール監督の映画『リラの門』(Porte des Lilas)の原作です。
小説の原題は「グランドサンチュール(パリの郊外を走るフランス国鉄の大環状線)」という意味ですが、翻訳された際は既に映画化されていたため、映画のタイトルがそのまま書名になっています(写真)。カバーも映画の一場面をイラスト化したような感じです。
面白いのは、カバー袖に書かれている「あらすじ」で、なぜか小説ではなく、映画のそれが紹介されています(内容だけでなく、登場人物の名前も異なる)。
同じく、カバー袖には「自分のオリジナル脚本でしか映画を撮らなかったルネ・クレールが、このルネ・ファレの小説にほれこんで、はじめて原作による映画を撮った」と記載されていますが、実際はそれ以前にも、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(※)や、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』などを映画化しています。
ルネ・ファレは市井の人々の生活を描いた作家で、一九五〇年にポピュリスト賞を受賞しています。庶民をユーモラスかつ温かく描くのを得意とするクレールとの相性がよいと思いきや、同じ題材を扱っても両者には大いなる相違があります。
その辺は最後に触れることにして、まずはあらすじを……。
あぶれ者が住み着くラ・デシャルジュ(ゴミ捨て場)と呼ばれる一角に、ある家族が住んでいます。ジュリアン(ジュジュ)は三十五歳で無職の酒飲みです。五歳下の妹ルネも働いていません。六十歳で足が悪い母親が家政婦をして得た収入で何とか生活をしています。
ある日、ジュジュは、彼の唯一の友人である老人のアルティスとともに、警官をふたり殺害し逃亡しているピエール・バルビエと出会い、彼を匿いますが……。
ファレの描く庶民は、貧しいけれど、清くはありません。
ジュジュは働く気が全くなく、ひたすら酒を飲んで生きています。窃盗もするし、猫を殺して食おうともします。猫を殺した後、罪の意識に苛まれた彼は、食品店の親父を殴り、食品を奪うことで忘れようとするなど、怠惰と貧困によって心が歪んでしまっています。妹のルネは、その親父に体を売って食べものをもらっていることから、兄妹はまともな教育を受けておらず、倫理や道徳に欠けているようです。
ほかの街で育った者も似たりよったりで、アルティスは無政府主義者ですし、警官を殺したバルビエは女を騙して南米に売り飛ばす商売をしています。
そんな掃き溜めのようなラ・デシャルジュにおいてさえ、飲んだくれのジュジュは最下等の存在として馬鹿にされています。
酒のせいで女と寝ることもできず、体は年寄りのようで、生気もありません。更生するには遅すぎ、誰もが、末は精神病院か、よくて養老院と考えているのです。それでも、どうしても酒をやめられず、気がつくとベロンベロンに酔っ払う始末。
そんなジュジュにも、希望がふたつだけあります。
ひとつは、バルビエです。年下のバルビエは、ジュジュにとって英雄であるため、使い走りにされたり、叱られたりしても、喜んで奉仕するのです。
ジュジュは、バルビエが無事に逃げ果せるのなら、どんなことでもしようと思うほど心酔しています。しかし、逃亡が成功するということは、バルビエと別れることを意味します。そうしたジレンマを抱えながらも必死に協力するジュジュは、人生で初めての充実感を得ます。
もうひとつが、結核に罹患しているフレデリックという若い女性です。彼女は故郷のコルシカ島へ帰ることを夢みており、ジュジュも一緒にゆきたいと考えています。
氷点下のラ・デシャルジュを逃げ出し、暖かいコルシカ島で漁師になれば、人生をやり直せるとジュジュは本気で信じているのです。
この先はネタバレになるため記載しませんが、ラストでジュジュは人として絶対にやってはいけないことをしてしまいます。それによって、どん底から這い上がれるならまだしも、天罰が下ったのか、さらなる深みへと落ちてゆくのです。
ジュジュの希望は完全に打ち砕かれ、この先は廃人になるしかないでしょう。
ファレの小説はこれしか読んでいないので何ともいえませんが、庶民の生活を描く作家といってもユーモアやペーソスとは無縁で、愚かな人間や残酷な現実を嫌というほどみせつけられます。
クレールの作風とは似て非なるものといったのは、これが理由です。ファレの方がリアルではあるのでしょうが、だからこそ人々は現実にはあり得ない人情喜劇を求めるのかも知れません。
その点、映画はクレールらしく、パリに舞台を移し、粋でほのぼのとした雰囲気を醸し出しています。
ジュジュは屈託のない、陽気なおっさんです。バルビエを敬ってもいず、潜伏されるのを迷惑に感じていますが、親切心から世話をしています。
前半は喜劇色が濃いのですが、原作には存在しないマリアという酒場の娘の登場によって、人間関係がもつれてきます。マリアはバルビエに惹かれますが、バルビエはマリアの金が目当てです。金を騙し取って逃亡しようとしたところ、マリアに好意を寄せているジュジュが立ち塞がるといった展開になります。
原作同様、ラストは悲劇になるものの、利己的な理由ではないため、ジュジュは最後まで善人のままで、後味も悪くありません。
クレールにしては苦い味つけですが、よく考えると『巴里の屋根の下』と同じく、失恋した男の悲しみともいえるわけです。
容赦のないファレとは、やはり根本的に性質が異なるのではないでしょうか。
※:クレールの『そして誰もいなくなった』は、「誰もはいなくならず」、いい感じで終わる。
『リラの門』岡田真吉訳、雲井書店、一九五七
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