Bartleby y compañía(2000)Enrique Vila-Matas
僕は以前から、作品を生み出さなくなった芸術家に興味がありました。
形として残さなくなったのか、創造すること自体をやめてしまったのか、はたまた、別の形を選択したのか。
人によって事情は異なるでしょうが、その理由の一端でも知ることができたらと考えたのです。
そうした疑問に向き合うために、古今東西の様々な「作品を生み出さなくなった」アーティストたち(主に作家)をまとめてくれたのが、エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(写真)です。
僕にとっては非常に重要なテーマなので、もっと早く感想を書いてもよかったのですが、それをしなかったのは、単に在庫があったからです。絶版の本の感想を書いているブログなので、新本で手に入るうちは取り上げることができないのです。
それはさておき、バートルビーというのは、ハーマン・メルヴィルの短編「バートルビー」の主人公で、無気力な人物の象徴として用いられます。
また、ビラ=マタスは、もうひとり、ナサニエル・ホーソーンの短編「ウェークフィールド」の主人公ウェークフィールドも、バートルビー的人物の双璧としています。彼は、ある日、突然、妻の前から姿を消し、変装をして隣町に二十年以上も住んでいた謎の男です(ホーソーンは実話を元にしたと書いている)。
そうしたキャラクターはほかにもいて、このブログで扱った小説では、イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』がその系列の作品になります。
フィクションの登場人物としては、ジェイン・オースティンの『エマ』のエマの父親、J・M・クッツェーの『マイケル・K』のマイケル・K、エマニュエル・ボーヴの『のけ者』のニコラなど枚挙に暇はありません。
バートルビー的な作家の例では、エルネスト・サバトの『英雄たちと墓』のブルーノや、アルフレード・ブライス=エチェニケの『幾度もペドロ』のペドロなどがいます。
バートルビーのような作家は、虚構のなかだけでなく、現実にも存在します。
寡作をとおりすぎて、ほとんど作品を発表しなかった作家、あるいは途中で筆を折ってしまった作家、結末を書かない作家、極端な場合、一作も書かなかった文学者すらいます。
有名なところでは、J・D・サリンジャー、アルチュール・ランボー、フアン・ルルフォ、ローベルト・ヴァルザー、オスカー・ワイルド、ジュリアン・グラック、そしてバートルビーの生みの親であるメルヴィル自身も含まれます(作家以外だと、マルセル・デュシャンやルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインなど)(※1)(※2)。
『バートルビーと仲間たち』では、彼らを一人ひとり丁寧に紹介してくれるのですが、この本はエッセイではなく、小説です。そのため、登場人物も物語も多少は存在します。
「わたし」は、背中の曲がった中年の独身男で、身内はひとり残らず死に、友人も多くありません。かつて小説を出版したことがありますが、そのときのトラウマが原因で筆を折りました。
今は事務所に勤めながら、エクリチュールを放棄した作家たちをリストにまとめようとしています。
要するに、バートルビー的人物を語り手にするための仕掛けで、劇的なことが起こるわけではありません。
精々ニューヨークでサリンジャーをみかけたり、バルセロナでジュゼップ・ビセンス・フォシュを観察したり、グラックと交流する程度ですが、唯一、小説として読ませる部分が、学生時代のクラスメイトであるルイス・フェリーペ・ピネーダとの友情です。
ピネーダは、詩を沢山書くものの、一編として完成させられません。彼は、「わたし」が出会った最初のバートルビーであり、ウェークフィールドというわけです。
さて、それぞれの作家の、筆を折った理由、書かないいいわけ、エクリチュールを否定する文学的意味が羅列されるわけですが、読みながら次のような疑問が湧いてきます。
書かないのか、書けないのか。理由があるのか、ないのか。理由を説明してるのか(いいわけ)、してないのか。書かないのなら、なぜ以前は書いていたのか。それとも、全く書いていなかったのか。書く意味と書かない意味。何について書く必要があり、何について書く必要がないのか……などなど。
様々な作家の事例を追うごとに気づくのは、この小説で取り上げられた作家は、積極的に否定、放棄、沈黙を守ったということです。
書くことに意味がないのではなく、書かないことに意味がある、いわば否定の文学活動を行なっていたわけです。
そのため、書いたけれど没にされた人や、書きたいのに何らかの理由(不人気、貧困、気力・知力・体力の衰えなど)で書けなかった人、書けずに挫折した人、自死を選んだ人は含めてはいけません。
「文学を放棄するやり方は作家の数だけあるし、そこに一貫性など見られない」とある以上、書かないことに、どのような意味があるのかは、読者がそれぞれの想像力に委ねられます。
小説が好きな人なら、そうした疑問を一度は抱いたことがあるのではないでしょうか。ましてや、こんな本を手に取ろうとするからには、なぜ人は否定の文学に取り憑かれるのか、という謎を解くためのヒントを欲しているはずです。
それどころか、九十九パーセントの人は何も書かないそうです(今はSNSがあるので、書かない人はもっと少ないかも)。
自分は、なぜ何も書かないのか、この機会に考えてみるのもよいかも知れません。
※1:書くことを積極的に否定した閨秀作家は少ない。『バートルビーと仲間たち』刊行以降であれば、アゴタ・クリストフも、そのひとりかも知れない。『昨日』以降、新作を書かず、短編「作家」には、何も書いたことのない大作家が登場する。しかも、短編集のタイトルは『どちらでもいい』と、いかにもバートルビーっぽい。
※2:バートルビー的な日本の作家は、寡聞にして思いつかない……。
『バートルビーと仲間たち』木村榮一訳、新潮社、二〇〇八
Amazonで『バートルビーと仲間たち』の価格をチェックする。