読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『作者を探す六人の登場人物』ルイジ・ピランデルロ

Sei personaggi in cerca d'autore(1921)Luigi Pirandello

 メタフィクションとは単なる作中作ではなく、フィクションに関するフィクションであり、自己言及や自己批判の機能を有します。
 メタシアター(メタドラマ)も同様で、ライオネル・エイベルによると「メタ演劇とは、充分に自意識を持ち自分自身で演劇化=演出を行なわねば気の済まない登場人物を演劇化=演出するのに必要な演劇の形式である」(『メタシアター』)とのことです。

 ルイジ・ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』(写真)は、メタシアターの古典的名作ですが、その用語自体は一九六三年まで存在しなかったため、作者はこれを「劇中劇」と呼んでいました。
 ピランデルロは、メタシアターを強く意識した作家で、戯曲では劇中劇三部作の『作者を探す六人の登場人物』『各人各説』『今宵は即興で演じます』、短編小説では「登場人物の悲劇」と「登場人物との対話」と、よく似た主題を何度も取り上げています。

 そもそも、『作者を探す六人の登場人物』と並ぶ代表作である『エンリーコ四世』にしても、登場人物が演技していると認識しているのですから、立派なメタシアターです。
 さらにピランデルロは「いかにして、どうして私は『作者を探す六人の登場人物』を書いたのか」というエッセイ(※)まで記し、自分の考えを明らかにしています。

 戯曲は余り売れないのか、翻訳されないことが多いのですが、幸いなことに上記はすべて日本語で読むことができます。
 その事実からも、虚構の人物が現れ、演劇そのものについて議論する『作者を探す六人の登場人物』が、日本の演劇界にも大きな驚きと興奮を齎したことが分かると思います。
 尤も、そのせいでピランデルロの短編小説は、紹介が遅れてしまったという弊害もありましたが……。
 というわけで、あらすじから。

 ピランデルロの戯曲『役割の悪戯』の舞台稽古が行なわれているところに、父親、母親、息子、継娘、男児、女児の六人家族が客席から現れます。彼らは、作者を探しているといいます。
 父親と母親の子どもは二十二歳の息子のみで、ほかの三人は母親と別の男の子どもです。父親の秘書をしていた男と逃げて家庭を持った母親でしたが、その男が死に、元の街に戻ってきました。
 しかし、生活は貧しく、売春をせざるを得なくなった継娘と、女を欲した父親が出会い、新たな家族が形成されます。
 その後、演出家が六人のことを脚本に書き、彼らの役は俳優が演じることになります。登場人物たちは、それを不満に思い、演出家に抗議しますが、稽古は続いてゆきます。やがて、悲劇が起こり……。

 初演の際は、上演中にもかかわらず観客が大騒ぎし、幕が下りた後はさらに騒ぎが大きくなったそうです。
 演劇の場合、現実の役者が異なる階層の人物を演じることになるため、観客は混乱してしまったのでしょう。
 例えば、映画であれば、特殊効果を加えるなどして分かりやすく演出できたかも知れません。

 登場人物が探しているのは、自分たちを生み出した作者ではなく、自分たちを生かしてくれる作者です。彼らは、性格に応じた人生を与えられており、普通の人間より遥かに「何者か」であるにもかかわらず、作者に捨てられたのが許せないのです。
 ピランデルロは、短編小説の「登場人物の悲劇」(1911)と「登場人物との対話」(1915)で同じテーマを扱っていますし、主張も構造も難解ではありません。『作者を探す六人の登場人物』にしても、レーゼドラマであれば特に問題はないのです。

 しかし、これが舞台で演じられると、突如、混乱が生じます。
 普通のメタ演劇は、登場人物が演出家のように行動し、ほかの登場人物に演技指導をしたり、演劇論を吹っかけたりすることで成立します。
『作者を探す六人の登場人物』の場合、演出家と六人の登場人物が、虚構内の異なる階層にいて、さらに登場人物を演じるのが、劇中では現実の役者たちという入り組みようです。きちんと整理しないと、理解が追いつかなくなるのも無理はありません。

 ところが、ややこしいのは、登場人物を人間と考えるからなのです。
 ピランデルロにとって必要なキャラクターとは、単に珍しい逸話を持つ人物ではなく、付属する物語や背景が普遍的な価値を持つテーマになっている人物です。
 つまり、それぞれがフィクションの主題であり、たまたまそれが人間の形をしているだけと考えればよいわけです。

 具体的には、父親と継娘は自分たちをいかに表現すべきかを訴え(新しいものは生み出せない)、母親は演じることをまるで意識せず、息子は演じることを拒否します。男児と女児は、何を考えているか、観客には手がかりすら与えられません。

 そう考えると、『作者を探す六人の登場人物』は、登場人物がドラマのなかで、どのような役割を果たすべきかを扱ったメタ演劇ということができます。
 それ故、俳優がテーマを引き継ぐのも不自然ではありませんし、ほとんど存在感のなかった男児と女児がラストで大きな意味を持つのも頷けます。

 作家として様々な登場人物に迫られてきたピランデルロは、彼らとの対話を繰り返すことによって、虚構を作り上げるタイプなのでしょう。
 そして、それを齎したのが「幻想(ファンタジア)」であると、彼自身語っています。
 ピランデルロは知的・論理的でありながら、どこか狂気を感じさせる作家です。その作風とメタシアターという形式は相性がよい気がします。

 それが理解できず、つき合わされた初演の観客は不満だったでしょうが、今となっては、歴史的な瞬間に居合わせた幸運な人々だったといえます。

 なお、『作者を探す六人の登場人物』は、金星堂の『六人の登場人物』、白水社の『ピランデルロ名作集』、新水社の『ピランデッロ戯曲集II』などで読むことができます。

※:その後、序文として『作者を探す六人の登場人物』に付されるようになった。

ピランデッロ戯曲集II』白澤定雄訳、 新水社、二〇〇〇

→『生きていたパスカルルイジ・ピランデルロ

戯曲
→『ユビュ王アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメスピエール・アンリ・カミ
→『大理石ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門ボリス・ヴィアン
→『ヴィオルヌの犯罪マルグリット・デュラス
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ

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