読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ

Leben bis Männer(2001)Thomas Brussig

 トーマス・ブルスィヒはドイツ民主共和国東ドイツ)出身の作家です。
 ベルリンの壁崩壊前後の東ドイツをテーマにすることが多いものの、アンナ・ゼーガースの『第七の十字架』などと異なり、ライトな作風が特徴です。例えば、邦訳されている『太陽通り』は、ごく普通の少年の生活をユーモラスに描いています。

 軽いタッチとはいえ、戦後、東ベルリンで過ごした作家が、ベルリンの壁の存在を無視して小説を書くことは考えられません。
『ピッチサイドの男』(写真)や『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』(写真)は、サッカーを前面に出して一見読みやすく工夫されていますが、実は社会や歴史について、じっくりと考えさせられる構造になっています。

 なお、この二作は独白のみから成り立っています。ト書きが極端に少ない(美術や音響、照明に関する指示も演出上の注意もない)ので戯曲と呼べるのか分かりませんが、ブルスィヒは演劇を学んでおり、『ピッチサイドの男』もひとり芝居として上演されたそうなので、一応戯曲に分類しておきます。

 舞台は、ベルリンの壁崩壊後のサッカー場。少年から大人までのサッカーチームの監督を務める「男」(名は明らかにされない)がピッチサイドでひとり語りを始めます。
 サッカーにまつわる話題のなかに、個人的な話(離婚や失業)が混じります。やがて、教え子のハイコが徴兵され、ベルリンの壁を越えようとした者を射殺したことを語ります。その事件からわずか一年後、壁は崩壊します……。

 戦後、東ドイツの国民は、権力といかに対峙するかを考えながら生きてきたのではないか、と西側の人々は想像します。亡命者対策としてベルリンの壁が作られた後も、自由を求める人が壁を越えようとして、その多くが国境警備隊に捕らえられたり、射殺されたりした。また、警備隊員も好きで銃を撃ったわけではなく、彼らの心にも大きな傷が残った……といったことを知っているからです。

 しかし、東西ドイツが統合され、東ドイツの国民が「これで自由になれた」と喜ぶのも束の間、今度は経済格差や差別という「心の壁」の問題が生まれます。統合の際、東ドイツは政治においても経済においても西ドイツに従わざるを得ず、旧東ドイツ国民はオッシー(Ossi)と呼ばれ、今も差別され続けているのです。

 サッカーでも東ドイツは、圧倒的に弱い立場でした。戦績も選手も西ドイツには遠く及ばず、代表としての記録も東ドイツは別扱いされています。
 このように虐げられている東ドイツですが、サッカーファンには忘れられない思い出があります。それが一九七四年のワールドカップ西ドイツ大会です。
 東ドイツ代表がW杯に出場できたのは、この大会のみ。このとき、東西ドイツは最初にして最後の対戦をします。
 ところが、圧倒的有利といわれた西ドイツは、何と東ドイツに1対0で敗れてしまいます。しかも、大会で優勝した西ドイツに唯一黒星をつけたのが東ドイツだったのです。
 この試合でゴールをあげたユルゲン・シュパールヴァッサーが国民的英雄に祭り上げられたのはいうまでもありません(シュパールヴァッサーは引退後に、西ドイツに亡命した)。

「男」の人生も、東ドイツのサッカーに似ています。
 怪我でサッカーができなくなり、勤めていた工場でも働けないため見習い工の教育係となるものの、そこもリストラされ、離婚して息子とも会えず、サッカーチームの監督というわずかな栄光にしがみつく……。
 東西が統一されて唯一よかったのはFCバイエルン・ミュンヘンと対戦できることだと語る彼は、サッカーに逃避することで辛うじて生きながらえているようにみえます。
 そんな「男」の現在の夢は、自分の率いるチームがブンデスリーガの強豪を打ち破ることなのでしょう。

 ただし、「サッカーは生きる救いになる素晴らしいものだ」といった表面的な話は重要ではありません。
 ブルスィヒが書きたかったのは、「男」の人生は確かに惨めだが、その存在を否定すべきではないということです。
 それは即ち、権力によって自由が圧殺された東ドイツとはいえ、その歴史をなかったことにすべきではないことを意味します。さらにブルスィヒは、東ドイツは失敗だったと断定して、深く考えようとしない西ドイツ側の傲慢な態度に異議を唱えているのです。

 ちなみに、その六年後に刊行された『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』では、「試合において審判は絶対の存在であるが、それを野次ることができるのが民主主義国家だ」なんて説明がされています。そういうのは、日本に生まれた者からはちょっと出てこない発想だと思います。

 陽の当たることの少ない東ドイツ側から書かれたサッカーの話という意味で、サッカー好きにもお勧めしたい作品です。
『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』の「日本版へのあとがき」は、作品のことには全く触れず、日本のサッカーについて語っており(香川真司ボルシア・ドルトムントで活躍していた頃に書かれた原稿)、そちらも面白いですよ。

『ピッチサイドの男』粂川麻里生訳、三修社、二〇〇二

サッカー小説
→『不安 ペナルティキックを受けるゴールキーパーの……』ペーター・ハントケ

戯曲
→『ユビュ王アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメスピエール・アンリ・カミ
→『大理石ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門ボリス・ヴィアン
→『ヴィオルヌの犯罪マルグリット・デュラス
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『作者を探す六人の登場人物ルイジ・ピランデルロ

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