読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『大理石』ヨシフ・ブロツキー

Мрамор1984)Ио́сиф Бро́дский

 ソ連から米国に亡命し、一九八七年にノーベル文学賞を受賞したヨシフ・ブロツキーは、少々変わった経歴の持ち主です。
 彼は、ソ連時代(自らは前世と呼ぶ)、共産主義国家建設のために有益な働きを何ひとつしない徒食者として逮捕され、僻村で強制労働させられることになりました。ところが、これが各国の文学者の話題となり、彼らの抗議によって刑期が短縮されるとともに、ブロツキーの名前が売れることになったのです(※)。
 当時、ブロツキーは全く無名の若き詩人で、この事件がなかったら、ひょっとすると誰にも知られず一生を終えていたかも知れません。人生って何が幸いするか分からないものですね。

 さて、ブロツキーは詩作が主であるため、邦訳は多くありませんが、なぜか『ヴェネツィア ―水の迷宮の夢』という紀行が売れたようです(僕が持っている本の奥付をみると、発行二か月で四刷)。
 恐らくは、小さくて薄いこと、洒落た装幀であること、そして、何より「ヴェネツィア」というタイトルのお陰で、軽妙洒脱な観光エッセイみたいなものを想像した読者が多かったのではないでしょうか。

 しかし、実際は、幻想的な詩のようでもあり、晦渋な随想のようでもあり、アンチロマン小説のようでもある上、芸術や歴史に関する教養も要求されます。少なくとも、就寝前に一、二章読んで、睡眠導入剤の代わりにするなんて類の本ではありません。大体、写真を撮りまくる日本人観光客の悪口まで出てくるんですから、心穏やかにはなれないでしょう。
 とはいえ、勿論、文学としては一流です。作中でアンリ・ド・レニエの名前が出てきますけれど、彼の『ヴェネチア風物誌』と併せて読まれると、より楽しめると思います。

 ブロツキーは残念ながら小説を書かなかったようですが、戯曲は少しだけ遺していて、その代表といえるのが『大理石』(写真)です。
 ウラジーミル・ナボコフ同様、自作を英訳して発表しており、『大理石』もロシア語で書かれ、後に自ら英語に翻訳しています(散文には最初から英語で書かれたものもある)。
 訳者によると、レーゼドラマ(Lesedrama。上演を目的とせず、読まれることを意図した戯曲)のようであるものの、実際は上演されたそうです。

 二世紀後の未来。巨大な塔にあるふたり部屋の監房に、プブリウス・マルツェルスとトゥリウス・ワロという男が閉じ込められています。監獄はコンピュータで管理され、快適な暮らしに必要な設備は何でも揃っています。
 というのも、囚人は罪を犯したわけではなく、国民の三パーセントが一生刑務所で暮すという政策のせいだからです。
 時間の感覚も曖昧になった日常において、不毛な対話をひたすら繰り返すふたりの男。彼らに真の自由は訪れるのでしょうか。

 たまたまですけど、『第七の十字架』『大脱出』に続いて囚人の話です。
 一種のディストピア戯曲ですが、面白いのは、彼らの社会が古代ローマを模していること。 首都はローマと改名されているし、皇帝の名はティベリウスやカリグラだし、人々はトーガを着てサンダルを履いています。
 それに一体どんな意味があるのかというと……よく分かりません。

 一応は、相反するもの(過去と未来、時間と空間、知性と野性、自由と束縛、高い塔の上と地上など)の象徴といえなくもない。けれど、なぜローマ帝国なのかといわれると、「うーん」と唸ってしまいます。キリスト教以前が重要なのか、ローマ帝国の滅亡に、ブロツキーの故郷ソ連の崩壊を重ねようとしているのでしょうか。
 タイトルの「大理石」はローマ時代の詩人の胸像(ふたりの部屋に一ダースほどおいてある)を指し、それは詩人としてのブロツキーのルーツなのかも知れませんが、読者には余り関係がないし……(寧ろ、胸像が脱獄に利用されるところが面白い)。

 そう考えてゆくと、「なぜローマなのか」「なぜ罪も犯していないのに監獄に入れられるのか」「なぜふたり部屋なのか」「なぜ監視されているのか」といった謎は、意味不明なところにこそ意味があることに気づきます。それらは前後の脈絡のないできごとであり、それこそが「純粋な時間そのもの」だからです。

 要するに、プブリウスとトゥリウスが暮らす部屋は、あらゆる意味で、外部から隔離された空間ということです。
 登場人物にとっては、高い塔の上に幽閉され、窓からは雲か星しかみえず、家族は面会にもこられません。散歩は、ルームランナーのように床が動くとともに、周囲に映像が映し出されるといった具合。
 そして、読者にしても、関連性がみえず、想像力を働かせることも難しいような組み合わせによって、尤もらしい意味をつけ加えられないようになっているのです。
 したがって、対話形式ではなく、ひとり芝居にした方が隔絶感がより強調されたかなとも思いますが、独白でこれを表現するのはさすがに困難だったかも知れません(実際、トゥリウスも独房の方がよいといっている)。

 さて、空間が完璧に閉ざされれば、人は時間のなかに逃げ込むしかなくなります。
 そうはいっても、具体的に、何をすればよいのでしょうか。
 トゥリウスは一度脱獄に成功するものの、それでは真の自由は得られないと戻ってきてしまいます。マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』の如く、同性愛の気配を漂わせるものの、衆道に溺れることはありません。また、自殺も選択されない……。

 結局、トゥリウスは、睡眠薬で眠りをコントロールすることで時間そのものになろうと画策します。トゥリウスは詩人ではありませんが、ブロツキーの分身であることは疑いようもありません。
 なぜなら、詩とは再構成された時間にほかならないからです。

 最後に……。
『大理石』を好きな理由は、作品の質とは無関係だったりします。実は、この戯曲の設定が、僕の理想とする状況にそっくりなんです。
 快適な生活が保証された閉ざされた空間。食事は勿論、欲しいものは電話ひとつで届けてくれます。労働の義務もなければ、苦痛を与えられるわけでもなく、七面倒な人間関係もありません。ここで、読書やゲームやネットをしたり、映画やテレビをみたり、昼寝をしたりして過ごせるなんて羨ましすぎる。
 筒井康隆に「耽読者の家」という、若者三人が、伯父の遺した古い家に集い、古い本をひたすら読みまくる短編があります。また、ジャック・リッチーの「世界の片隅で」は、スーパーの屋根裏にやむなく隠れているうち、快適に生きられることに気づいた内向的な青年の話です(深夜に食品やペーパーバックを取りに降りる)。それらも楽しそうだけれど、こちらもかなりそそられます。
 まあ、そんな都合のいい事態は一生巡ってこないでしょうが、虚構を媒介にして夢をみるのは自由ですからねえ。

※:『大理石』の帯には、作品の紹介ではなく、一九六四年、ソビエト官憲に逮捕されたときのプロツキーと裁判官の対話の一部が掲載されている。彼の作品より、こちらの方が面白いと判断されたのであろう。ある意味、納得……。

『大理石』沼野充義訳、白水社、一九九一

戯曲
→『ユビュ王アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメスピエール・アンリ・カミ
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門ボリス・ヴィアン
→『ヴィオルヌの犯罪マルグリット・デュラス
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ
→『作者を探す六人の登場人物ルイジ・ピランデルロ

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