読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『地下街の人びと』ジャック・ケルアック

The Subterraneans(1958)Jack Kerouac

 ジャック・ケルアックは、紛れもなくスピードスターです。

 彼の特徴は、思いついたことを一気呵成に書き上げることで、そのスタイルは「即興」と呼ばれました。
 出世作の『路上(オン・ザ・ロード)』は元々、紙をつなぎ合わせ巻物のようにしたタイプ用紙に書かれました。長さは八十メートルに達し、ケルアックはそれを三週間で書いたそうです。しかし、そのままでは出版できず、大幅に削除されたものがベストセラーになったのです(今では、スクロール版も翻訳されている)。

 ケルアックは『路上』の出版を待つ間にも、世には出なかったものの数多くの作品を書き上げています。そのひとつが『地下街の人びと』(写真)です。この作品も、ドラッグをやりながら三日で書いたとか。
 そのせいか、作中の恋愛も破滅に向かって疾走してゆきます。

 なお、ケルアックは『路上』が注目され、一躍時代の寵児になった後は、逆に執筆が進まず、あっという間に世を去ってしまいました。
 作品も本人も、正に猛スピードで駆け抜けていったわけです。

「地下街の人びと」といわれるサンフランシスコのビートニクたち。
 三十一歳の作家レオ・パースパイドは、九歳年下の黒人女性マードゥ・フォックスと恋に落ちます。ドラッグに溺れ、ジャズに酔い、議論をし、セックスに耽り、タイプを叩く日々。未来はみえないものの、幸福そうです。
 しかし、そんな生活にも終わりがやってきます……。

 マードゥはネイティブアメリカンの血が混じった黒人女性で、複雑な家庭で育ちました。現在は、地下街の人びとの近親相姦的な関係のなかで自由奔放に生きており、反面、セラピーに通うほど病んだ面もあります。
 一方、ケルアック自身をモデルにしたレオは、母親と暮らしながら小説を書き、地下街の人びとの間ではアダム・ムーラッド(アレン・ギンズバーグがモデル)らとともに尊敬の対象となる存在です。
 その彼が、自分とかけ離れた女性にのめり込んでしまうところは、十分理解できます。

 ただ、レオとしては、本気で溺れるというよりも、火遊びに近いようです。つまり、長くつき合うつもりはなく、毛色の異なる相手との刹那的な恋愛を楽しむといった具合。
 このように、どこか冷めた態度をとったのは、一九五〇年代という時代の影響もあるでしょう。公民権運動真っ只中の米国において、白人と黒人が無邪気につき合うことはできません。周囲の者には好奇の目でみられるし、ふたりで並んで歩くと娼婦と勘違いされるという理由で、マードゥが手をつなぐのを拒否するシーンもあります。
 結婚ともなれば、さらに困難が多く、レオも端からそこまで考えていないというのが本音でしょう。

 また、物質主義を否定しスピリチュアルな世界に浸り、自由なセックスを主張したビートニクの中心人物としては、ひとりの女性に入れあげ独占することができなかったという事情もあります。
 さらにマードゥの精神は不安定で、レオはそれを持て余している様子もみえました。そして、いかにマードゥを傷つけずに別れるか、ということばかり考えるのです。

 ところが、ユーゴスラビアの詩人ユーリ・グリゴリックが現れたことでレオの気持ちは変化します。
 地下街の人びとの重鎮であるレオを倒し、名を成したいと企んでいる若きユーリは、マードゥに近づいてきます。それによって、レオの嫉妬心に火がつきます。
 けれども、彼女の方から別れ話を切り出され、ふたりの恋は終わります。

 レオは最後まで、「黒人」「女性」「貧乏」「メンヘラ」のマードゥを、立場の弱い存在と考え、憐憫の情を抱きます。そして、そんな彼女を捨てざるを得ない自分に酔うのです。
 住む世界の違うふたりが偶然出会い、束の間の恋に落ちる。彼は、まるで『ローマの休日』のようなシチュエーションを思い描き、格好つけて物語の幕を閉じます。

 しかし、マードゥは本当に、それほど可哀想な女性なのでしょうか。
 見方を変えると、マードゥが冴えない中年の作家を捨て、若くイケメンの青年に乗り換えたとも読めます。それが成功するかは分かりませんが、どう転んでも彼女は強かに生きてゆけそうです。

 美化した思い出に浸る男と、飽くまで現実に根を張る女。
 両者の立場から、この恋物語を眺めるとより楽しめるような気がします。

『地下街の人びと』真崎義博訳、新潮文庫、一九九七

Amazonで『地下街の人びと』の価格をチェックする。