Les Viaducs de la Seine-et-Oise(1959)/L'Amante anglaise(1967)/L'Amante anglaise(1968)Marguerite Duras
マルグリット・デュラスの『ヴィオルヌの犯罪』(写真)には、モデルとなった殺人事件があります。一九四九年に、アメリー・ラビュー(Amélie Rabilloux)が夫を殺害し、遺体をバラバラにして陸橋を通る貨物列車に少しずつ投げ込んだ「ラビュー事件」がそれです。
といって、トルーマン・カポーティの『冷血』やアルフレート・デーブリーンの『二人の女と毒殺事件』などのノンフィクションノベルとは異なり、飽くまで実際の事件にインスピレーションを受けたフィクションです。
ただし、形式はインタビュー記事を模しているので、疑似ノンフィクションノベルといったところでしょうか。
僕が面白いと思ったのは、デュラスがラビュー事件という素材を四度も作品に取り入れていることです。説明がややこしいので、以下、便宜的に番号を振ります。
1 戯曲『セーヌ・エ・オワーズの陸橋』。『デュラス戯曲全集〈1〉』(写真)や、『今日のフランス演劇〈2〉』に収録されている。
2 1を小説という形で書き直した『ヴィオルヌの犯罪』。
3 2を同じタイトルで戯曲化(二場)したもの。『デュラス戯曲全集〈2〉』に収録されている。
4 3を、2と同じく三場に改変したもの。2〜4はすべて同じ題名。
これらは、年代、舞台、登場人物の名前、年齢、職業などが微妙に異なります。つまり、デュラスは一度の試みでは納得がゆかず、何度も書き換えたことになります。元々彼女は同じテーマを繰り返し追求するタイプの作家(※)ですが、それにしてもしつこい……。
この事件の何がデュラスを捉えたのか。さらには、なぜ執拗に手を入れ続けたのか。
ある意味、作品そのものよりも興味を惹かれます。
デュラスは日本でも人気が高いので、幸い4以外は邦訳されています。今回は、それらを比較しつつ、感想を書いてみたいと思います。
まず、事件が起こった年、地名、人物名といった些細な違いは無視して、事件の概要を記します。
1は、子どものいない中年の夫婦が、長い間同居している聾唖の従姉妹を殺害し、死体をバラバラにして陸橋から貨物列車に捨てます。計画を立てたのは妻で、実行犯は夫です。
2と3は、夫婦の共犯ではなく、妻の単独犯となります。
次に構成ですが、1は二幕構成です。一幕は、夫と妻が殺害後に語り合います。二幕は、カフェで夫婦を含む常連たちが会話をし、その結果、犯行が露呈し刑事に逮捕されます。事件の概要は、ナレーションによって説明されます。
2は、前述したとおりルポルタージュを模した三章構成です。一章はカフェの店主のインタビューを通して事件の概要、夫婦の事情などが説明されます(1の第二幕に相当する)。二章は夫、三章は妻の事情聴取です。
3は、演出家のアドバイスに従って、2の二、三章部分を二場の戯曲に仕立て直したものです(内容はほぼ同じ)。事件の概要は、録音テープによって説明されます。
このようにしてみると、大きく異なる点は「文学形式」と「犯人」であることが分かります。
それらについて、素人なりに考察してみます。
まず、文学形式についてですが、デュラスがこの事件を戯曲にしようとしたのは、夫婦の対話を重視したからではないでしょうか。デュラスの作品において、対話、声、沈黙(間)は非常に重要な要素であり、夫婦の共犯という特異性に注目するなら、彼らの対話によって殺人事件の真相を明らかにするのは必然といえます。
ただし、デュラス自身は1が余り上手くいっていないと感じていたようです。
それを小説化したのは、ノンフィクションノベルという手法を思いついたからかも知れません。インタビュアーやカフェの店主といった第三者の目を通すことによって、犯人を客観的に描写しようとしたのでしょう。
しかし、この頃のデュラスの小説は、『破壊しに、と彼女は言う』にしても『ユダヤ人の家』にしても、会話と簡潔な地の文とで成り立っており、戯曲の方へかなり接近しています。特に2は、地の文が一切ない対話体小説で、限りなく戯曲に近い。
一方でデュラスは、役者に渡すシナリオを公開することを許可しませんでしたから、戯曲と脚本の違いを強烈に意識していたと思われます。
要するに、1も2も読者の存在する文学であり、戯曲か小説かの区別は余り意味がないように感じます。そのことは、2を戯曲に戻した3や4を書いていることからも分かります。
なお、2は「間」を表現するために、頻繁に空行を用いています。
読者はどんどん読み進めず、ここで一拍置く必要があります。
文学形式よりも重要なのは、1では夫婦が共犯関係にあったのを、2で妻の単独犯に変更したことでしょう。
被害者の聾唖の女性は、牛のような体型でありながら、家事、特に料理が上手いと説明されます。読唇術をマスターしているので意思の疎通もでき、男好きであるほかは行動に問題はありません。少なくとも殺されなければならない理由は全くないのです。
いわゆる「動機なき殺人」を描いているわけですが、これを夫婦の共犯にするのはさすがに無理があるといわざるを得ません。
妻の殺意を汲み取り、殺人・遺体の解体・遺棄を担当してあげる夫(夫は死刑となり、妻は終身流刑となる)にもリアリティがありませんし、犯行後は夫婦ともに、露呈するのを恐れ、反省し、量刑が軽くなることを願う点も、ちぐはぐな印象を受けます。
デュラスが1を気に入らなかったのは、その辺に理由がありそうです。
というのも、2は、精神遅滞があるらしき妻の単独犯にしたことで、彼らが俄然身近に感じられるようになったからです。
結婚前から妻の言動には常人と違った点があり、中年になった今は夫婦関係が完全に冷え切っています。妻が衝動的に同居人を殺し、地下室でバラバラにしても、夫は気づきませんし、そもそも関心がありません。
一方、美人の妻は、過去にも現在にも愛人がおり、夫のことは元々好きではないといいます。
殺害の動機はともかくとして、このような夫婦は案外と多いのではないか、特に長い間連れ添うと、こうした関係に至るケースもあるのではないか、と思わされます。
つまり、この作品は、動機を推察するのではなく、夫婦と従姉妹による家族、さらには周囲の人々との関係に注目すべきなのではないでしょうか。
確かに、犯行動機ないしは切り取られた頭部のありかという謎は存在しますが、動機はいかようにも解釈できます。発達障害のせいにしても、狂気のせいにしても、眩しい太陽のせいにしてもよい。
「頭部をどこに隠したか?」にしても、それが判明したからといって心の闇がみえてくるわけではありません。
それよりも重要なのは、夫婦がどのような人生を歩んできたかです。
田舎の村からほとんど外へ出ずに暮らしてきた夫婦。夫は役人で、妻は専業主婦です。子どもはなく、同居するのは障害者の従姉妹のみ。カフェには通うものの、そこには店主とイタリア人の樵しかいない。
このような閉鎖的で変化のない生活が、彼らの心を確実に蝕んでゆきました。
それは、妻が殺人を犯しても村から逃げることができず(一日だけパリへゆくが、戻ってきてしまう)、代わりにバラバラになった死体がフランス全土を巡るという皮肉な表現からもよく分かります。
夫は「従姉妹が殺されたのはたまたまで、自分が殺されていたとしても何の不思議もない」といいます。
実際、そのとおりで、妻にとっては虫を殺すのも夫や従姉妹を殺すのも大差はなかったでしょう(ラビュー事件は正に夫殺しだった)。家族の存在は、そこまで稀薄になっていたのです。
夫と妻がそれぞれ単独でインタビューを受ける2の二、三章で、ひとつ屋根の下で暮らしながらも互いの心は遠く離れていたことが明らかとなります。それは、殺人や死体損壊・遺棄あるいは妻の狂気よりもショッキングです。
となると、その部分だけを残した3が理想的といえそうですが、当然ながらそれは僕の個人的な感想です。例えば、1の二幕を「倒叙ミステリーの傑作!」と評価する人もいるでしょう。
興味のある方は、ぜひ読み比べてみてください。
※:例えば、『太平洋の防波堤』(小説)は、『L'Eden Cinema』(戯曲)に書き換えられ、『愛人(ラマン)』(小説)を経て『北の愛人』(小説)につながる。
『ヴィオルヌの犯罪』田中倫郎訳、河出文庫、一九九六
『デュラス戯曲全集』〈1〉〈2〉三輪秀彦ほか訳、竹内書店、一九六九
→『破壊しに、と彼女は言う』マルグリット・デュラス
戯曲
→『ユビュ王』アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメス』ピエール・アンリ・カミ
→『大理石』ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ