The Nanny(1987)Dan Greenburg
「ナニー」とは、英米において母親に代わって子育てをする女性のことです。最も有名なナニーは、P・L・トラヴァースの『メアリー・ポピンズ』の主人公でしょう。
一方、ホラー・サスペンス映画では「乳母もの」と呼ばれるジャンルがあり、『妖婆の家』『ゆりかごを揺らす手』『エミリー 悪夢のベビーシッター』『ザ・ベビーシッター』といった作品がそれにあたります。
また、パラノイアの女王と呼ばれたパトリシア・ハイスミスのデビュー作「ヒロイン」の主人公もナニーでした。
か弱く大切な子どもを他人に預けなければいけないという不安が膨らみ、恐怖を生み出してしまうのかも知れません。
ダン・グリーンバーグの『ナニー』(写真)も、『ガーディアン/森は泣いている』The Guardian(1990)のタイトルで映画化されています(グリーンバーグは脚本家として参加している)。
例の如く映画はみていませんが、森の老木に赤子を捧げるといったストーリーだそうです。しかも、ナニーは飽くまで邪悪な木の下僕らしく、ナニーが主役の小説版とは全くの別ものです。小説の筋は単純なので、そのまま映画化したのでは地味すぎると考えた人が設定を変えたのではないでしょうか。
シカゴからニューヨークに引っ越したフィルとジュリーのプレスマン夫妻に、ハリーという男の子が誕生します。誰の手も借りずふたりで育てるつもりでしたが、ハリーは疝痛持ちで泣いてばかりいるため、ナニーを募集しました。
数多くの候補者を面接したものの、赤子を任せられそうな者がみつかりません。そんななか、態度はよくないけれど、元看護師で、ナニーとしての経験も豊富なルーシー・レッドマンに任せてみることにします。
それが悪夢の始まりでした……。
殺人鬼が登場するホラーの舞台は、都会よりも郊外であることが多く、逆にモンスターやエイリアンなどによるパニックものは都会が多い気がします。
その理由として、殺人鬼は飽くまで人間なので、都会は「人が多く、殺しきれない」「警察や近隣の者など助けがきてしまう」「交通機関の発達や住宅の密集により逃げられやすい」などがあげられます。
一方、圧倒的な力を持つモンスターは、短時間で大量の人を殺せる都会の方が活躍できるわけです。
『ナニー』は、『ミザリー』や『エスター』のように女性のサイコパスが主人公であるため、マンハッタン(ロウアーウエストサイド)を舞台にしていますが、クライマックスになってナニーが怪物化するとお約束のように郊外(ロングアイランド)へ移る点が面白い。
といっても、この小説の読みどころは、スプラッタやゴアのような分かりやすい恐怖ではなく、ナニーの異常な言動が繊細な夫婦の精神を少しずつ蝕んでゆく過程にあります。
例えば、フィルは、ルーシーが赤ちゃんと一緒に入浴したり、授乳したりしているところを目撃します。これは親にとってみたら、虐待よりも恐ろしいことです。「自分も裸になった方が赤子を洗いやすかった」とか「泣き止まない赤子に乳をあげる真似をして誤魔化そうとした」などという解釈もできるものの、釈然としない感情は残ります。
そして、それが「放っておいたら自分の子を他人に奪われてしまう」という強迫観念へと成長するのです。
他方、ルーシーは、夫婦それぞれと性的な関係を持ちます。セックスで夫妻を支配し、自分を中心とした献身的な愛に満ちた家族を作ろうと考えているのです(グリーンバーグは、次作『ブロンドの処刑人』でも、刑事と犯人のセックスを描いているので、そういう展開が好きみたい……)。
そこまでは読み解けなかったものの、漠然とした不安を抱いたフィルは、ルーシーを馘首しようとします。そして、自らの計画が崩壊することを恐れたルーシーは、いよいよ牙を剥き出しにするのです。
ここからラストシーンまでは典型的なホラーになります。
章をごく短くすることで頻繁に場面転換をしスピード感を出したり、洗剤の固有名詞を羅列して殺害があったことを匂わすといった工夫は評価できるものの、展開はありきたりだし、結末も読めてしまいます。
特にいけないのは、ルーシーが「魔女」というオチです。
「黒魔術の道具」らしきものを持っていたり、「十九世紀から生きて」いるようだという伏線はありますが、そこへ落とすと全体が非常に安っぽくなります。
その事実および元の雇い主が精神を病んでいる様子、陳腐なクライマックスなどを省けば、育児に悩む若い夫婦の不安定な精神がナニーを媒介して異様に膨れ上がる様を表現できたかも知れません。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』とまではいかなくても、ユニークな心理小説になった可能性があります。
尤も、そうなると最早エンターテインメントとはいえないので、映画化どころか出版すら無理だったでしょうねえ……。うーん。
『ナニー』佐々田雅子訳、新潮文庫、一九八九