読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『バリー・リンドン』ウィリアム・メイクピース・サッカレー

The Luck of Barry Lyndon(1844)William Makepeace Thackeray

 産業革命の起こったヴィクトリア朝(一八三七〜一九〇一)は、イギリスの黄金時代といわれます。また、この時代は芸術が大きく花開いたことでも知られています。
 文学においても、今では「文豪」と呼ぶに相応しい作家がしのぎを削っていました。日本に置き換えると、明治時代に雰囲気が似ているかも知れません。

 ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、その頃に活躍した作家で、チャールズ・ディケンズと比較されることが多いそうです。
 しかし、ディケンズが庶民の生活を描いたのに対して、サッカレーは一貫して上流階級に目を向けました。
 そのせいか、ディケンズほどの人気は得られませんでした。我が国においても今では主に『虚栄の市』の作家として知られている程度です。

 ただし、映画ファンはサッカレーを、スタンリー・キューブリック監督の『バリー・リンドン』の原作者として認識しているかも知れません。
 角川文庫から訳本が出たタイミングも、映画の日本公開に合わせてでした。

バリー・リンドン』(写真)は、いわゆるピカレスク小説や教養小説に分類されます。英国の作家でいうと、ヘンリー・フィールディングやダニエル・デフォーディケンズらの流れを汲んでいます。
 例えば、フィールディングの『トム・ジョーンズ』の主人公が完璧な善人(飽くまで当時の倫理観や道徳観に基づいた場合。現代人が読むと「女性関係に問題あり」と感じるだろう)なのに対して、バリーは決して聖人君子ではなく、いわゆるピカロ(悪漢)です。
 つまり、ピカレスク小説としては『バリー・リンドン』こそが正統な後継者といえるわけです(ピカレスク小説については、こちらを参照)。

 サッカレーは、ディケンズと比較すると、確かに技法も描写も展開もユーモアも古臭い。十九世紀半ばの作品にもかかわらず、舞台が十八世紀なのも時代がかってみえる所以でしょう。
 が、古典的な騎士道小説やピカレスク小説を愛する者にとって、『バリー・リンドン』は堪らなく楽しい一冊です。
 とにかく、まずはあらすじから……。

 アイルランドの名家の末裔だが、落ちぶれた家系に生まれたレドマンド・バリーが老年になって、半生を振り返ります。
 十八世紀に生まれた彼は十五歳のとき、決闘で人を殺め(実際は死んでいない)、出奔します。その後、バリーは各地を転々とします。詐欺師夫婦に騙されたり、英国軍に入隊したり、プロイセン軍に入れられ七年戦争を戦ったりし、アイルランドに帰国したのは十一年後のことでした。
 彼は、そこで英国一の資産を持つ女伯爵オノリア・リンドンに求婚しますが……。

 母親と暮らしていた少年時代のバリーは、正義感の強い、真面目な若者でした。従姉妹のオノリア(ノーラ)に恋をして、伯父の借金を肩代わりしてくれるという資産家のクィン大尉に決闘を申し込むところなどは、金よりも愛を尊ぶ英雄の誕生といった雰囲気があります。
 ところが、バリーは世間の荒波に揉まれることによって、狡猾な策士へと変貌してゆきます。愛なんかどうでもよく、とにかく地位と資産を求めるようになるのです。

 特に重要な転機となったのが、レドマンド・ド・バリバリーという伯父との再会でした(※1)。
 この人物が曲者で、彼と手を組んでからバリーの邪悪な面が増幅されます。バリーは家柄、美貌、剣の達人という武器を手に、様々な人々を誑かしてゆくのです(※2)。

 勿論、そうなってからの方が小説としては断然面白い。
 ラインラントで裕福な女伯爵イーダと結婚するための策略、そして、それに失敗したバリーがじっくり時間をかけレディ・リンドンを罠に嵌めてゆく過程は、コンゲーム小説のようでワクワクします。
 バリーは悪知恵も働きますし、資金も名声もそれなりにあります。さらに、いざとなると決闘(無敵)で、邪魔者を抹殺してしまうという、手のつけられない悪漢なのです(そこまでやっても、必ずしも成功するとは限らないが……)。

 このようにバリーはかなりの奸物で、伝統的な物語であれば、善良な主人公を苦しめる悪役といった役どころが相応しいでしょう。
 それが『バリー・リンドン』においては、一人称の語り手となります。つまり、自己を正当化するための欺瞞に満ちた語りが展開されることになるわけです(※3)。何しろ、自分のことは「寛大で、慈悲深く、もの分かりがよい」のに、妻は「醜く、狭量で、吝嗇で、魅力が全くない」と記す厚かましさなのですから、ほかも推して知るべしです。
 これは、いわば「信頼できない語り手」の手法であり、事実と虚構との差を楽しむのが現代における正しい読み方でしょう(最早、当時の英国の上流階級を諷刺する意味はないので……)。

 まとめると、『バリー・リンドン』は、ピカレスク小説の代表といわれる『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』と、そのパロディであるカミロ・ホセ・セラ『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』の中間に位置しながら、物語や語りの面白さではそれらに引けを取らない作品です。
 しかも、長編小説で最も大切な「長大さ」も兼ね備えています。平和な正月の読書にもぴったりですから、今のうちに入手されることをお勧めします。

 最後に、映画について簡単に記載します。
 映画の最大の難点は、キューブリックが、バリーを愚鈍な善人に変えてしまったことです。そのため、気の利いたエピソードが軒並み消えています。
 それだけならまだしも、悪党をリアリスティックに描くというサッカレーの意図とは真逆の方向へ向かったのが残念でなりません。例えば、小説の終盤、バリーは己の悪事や邪悪な性質がバレて、上流階級の人々に非難され、爵位は得られず、破産寸前までゆき、さらに「愛息を亡くす」という不幸に見舞われます。小説の読者はそれらを自業自得だと笑い飛ばせるのですが、映画では連れ子であるブリンドン卿の反抗によって破滅する、運の悪い惨めな男といった印象を受けます。それによって、薄っぺらいお涙頂戴に陥ってしまいました。
 キューブリックの映画は、美しい映像、豪華な衣装や美術、美女(マリサ・ベレンソンとディアーナ・ケルナーが特に美しい)を楽しむ分にはよいですが、原作を読んでいるともの足りなさを感じてしまいます。
 サッカレーが映画をみたら、スティーヴン・キングのように腹を立てたかも知れませんね。

※1:映画では、単なる同郷人。

※2:バリーの悪辣な人物造形は、『虚栄の市』のレベッカ・シャープにつながる。

※3:当時の読者にそっぽを向かれないようにするためか、編者による脚注という形で「悪党による一代記が人間性の研究のために書かれてもよいのではないか」といいわけしている。


バリー・リンドン深町眞理子訳、角川文庫、一九七六

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