読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』カミロ・ホセ・セラ

Nuevas andanzas y desventuras de Lazarillo de Tormes(1944)Camilo José Cela

 十六世紀半ばのスペインで、作者不詳の小説が突如ベストセラーになりました。それが『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』(1554)です。
 文庫本にして百頁強という短い物語ですが、ピカレスク(悪漢)小説の典型として今なお読み継がれています。

 ちなみにピカレスク小説とは、
・年老いた主人公が人生を振り返り、教訓を誰かに向かって語りかける形式で書かれる。
・社会の下層階級に位置する主人公が様々な人と出会い、知恵と才覚を駆使して生き抜いてゆく。
・登場人物の言動を通じて社会を諷刺する。
・時系列に沿ったエピソードの積み重ねからなっている。

といった特徴を持つ小説のことです。

『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』のあらすじは以下のとおりです。
 トルメス(川の名前)のラサロと呼ばれる少年が親元を離れ、盲目の物乞い、吝嗇な聖職者、一文なしの従士など様々な主人に仕えます。
 主人たちは恐ろしくケチだったり、意地悪だったり、貧しかったりするため、ボケっとしていると命が危ない。そこでラサロは悪知恵を働かせ、彼らを出し抜くのです。その後、ラーサロは司祭の妾を嫁にもらい、後ろ盾を得ることに成功し、めでたしめでたしとなります。

 なお、『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』には、勝手に書かれた続編があります(別人による偽作については『贋作ドン・キホーテ』を参照)。それがファン・デ・ルナの『Segunda parte de la vida de Lazarillo de Tormes』(1620)です。
 そのほかにも「ラサロの新たな冒険」は数多く存在しますが、二十世紀に書かれたものではチロ・バヨの『El Lazarillo español』(1911)と、ノーベル文学賞を受賞したことでも知られるカミロ・ホセ・セラの『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』(写真)が有名でしょう。

 しかし、『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』は続編というより、ピカレスク小説のパロディと考えた方がよいかも知れません。
 というのも、処女作の『パスクアル・ドゥアルテの家族』からして構造はピカレスク小説そのものですから、セラはその形式を強く意識して小説を書き始めたと考えられます。そして、それをさらに突き詰めたのが『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』といえるのではないでしょうか。

 あのラサロを「祖父」に持つラサロは、父が何者か分からず、母にも捨てられ、様々な主人に仕えることで生きてゆきます。
 牧童をして貯めた金を持って世間に飛び出したのがラサロ八歳のとき。やくざな三人の楽士に仕え旅をし、彼らに騙され捨てられた後は、貧しい悔悛者フェリペに従います。彼は優しい父親のような存在でしたが、儚くなってしまいます。
 その後、フランス人の旅芸人一家、詩人、薬剤師、女祈祷師などに仕え、やがて兵士となり、兵役を終えて一人前となります。

 本家ラサロの孫といいつつ、ラサロは十九世紀末の生まれです。
 ラサロの活躍を知っていて、なおかつ舞台を二十世紀にしなければならなかったことによる苦肉の策(※)ですが、それ以外は『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』あるいはピカレスク小説の伝統を踏襲しており、実験的な要素はほとんどありません。
 なぜなら、『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』は、現代の読者の鑑賞にも十分耐えうるピカレスク小説を目指して執筆されたからです。

『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』は、今読んでも面白いとはいえ、五百年近く昔の小説ですから、雑な面もご都合主義的な面も単純すぎる面も当然あります。仮に映像化するとしたら、物語に大きく手を加える必要があるでしょう。
 また、全体の構成も非常に歪です。全七話からなっていますが、最初の三話が全体の八割を占め、残り四話はあらすじに毛が生えた程度で読む価値は全くありません。

 さらに、ピカレスク小説の本来の役割が、現代ではほとんど無意味になっていることも問題です。
 当時のスペインは宗教改革が行なわれていたこともあって、聖職者や貴族を諷刺するのが最大の目的でした。そのため、作者は改宗者(コンベルソ)や亡命者が多く、一作家一作しか書かなかったそうです。
 つまり、威張った聖職者をこきおろすのが第一で、文学としての質は特に求められていなかったわけです。

 二十世紀にピカレスク小説を書くなら、形式は守りつつ、リアリティのある大人の物語にする必要があるでしょう。逆にいうと、古臭い形式を用いても、現代的な文学作品を作れることを証明できたらセラの株は上がります。
 結果としては大成功で、個々のエピソードの完成度は高く、どの章も時代に則した味つけがされています。例えば、本家では単なるケチな聖職者が描かれていましたが、セラは吝嗇にも理屈を加えます。給料の代わりに領収書を渡し、それを担保にするといいつつ結局、支払いを拒む薬剤師など、セコさが具体的になって面白さが増します。

 なお、セラのラサロは騙されても仕返しをしません。本家ラサロは、やられたらやり返していたので爽快感がありましたが、セラのラサロは思慮分別があり、人と余り争わないのです。
 これも前述したとおり、諷刺の色合いが薄いせいでしょう。今さら詐欺師や吝嗇家をやっつけたところで大した意味はありませんから。
 また、セラのラサロは、老年になっても蓄えがなく、結婚もしていません。本家ラサロのようにずる賢く立ち回るのではなく、報われないとしても真面目に生きることの大切さを説いているようです。

 遍歴、つまり諸国を巡る点を強調したのは、とてもよいと思います。本家と比較すると、旅人を主人にする比率が高く、自然とラサロも旅に生きることになります。
ドン・キホーテ』を例に出すまでもなく(ラ・マンチャも登場する)ロードナラティヴには一定の面白さがあります。加えて、その土地土地の写実的描写が優れているため、飽きずに最後まで楽しめます。

 さて、ラサロが一人前の青年になると、物語は唐突に終了します。「前編はここまで。後編はラサロの頭のなかにある」という、いかにも近世の文学にありがちな口上が取ってつけられます。
 勿論、後編など書く予定はなかったのでしょう。それを承知しつつも、続編を読んでみたかったですね。

※:『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』の本はみつけるが、中身はみない。

『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』有本紀明訳、講談社、一九九二