読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『キホーテ神父』グレアム・グリーン

Monsignor Quixote(1982)Graham Greene

ドン・キホーテ』ほど有名になると、そのパロディ作品も、タイトルだけもじったもの、ドン・キホーテ的な人物が登場するだけのものから、本格的なものまで、世界中に腐るほどあります。
 有名なところでは、ヒュー・ヘンリー・ブラッケンリッジの『Modern Chivalry』、タビサ・ギルマン・テニーの『Female Quixotism』、フランツ・カフカの「サンチョ・パンサをめぐる真実」(これは、わずか一ページ強のメモ)、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」などがあげられるでしょうか(日本の小説なら矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴 ―またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行』が有名かな)。
 そのなかで、正統派のパロディといえるのが、グレアム・グリーンの『キホーテ神父』(写真)です。

 グリーンは『第三の男』や『情事の終わり』など映画化された作品が多く、一流のエンターテインメント作家という印象が強いのですが、カトリック信仰に基づいた硬派な文芸作品も遺しています。
『キホーテ神父』はというと、一応後者に分類されるのかも知れませんが、堅苦しさは微塵もなく、上質なコメディに仕上がっています。

 田舎町トボーソ(愛しのドゥルシネーア・デル・トボーソが住んでいた村)の神父キホーテは、凡庸で人のよい人物。ドン・キホーテの子孫だと信じていて(虚構のなかのドン・キホーテは独身のまま亡くなったけど)、オンボロのフィアット600にロシナンテという名をつけています。
 ある日、町をとおりかかったモトポの司教に親切にしたことで、最高聖職者の尊称である「モンシニョール」という称号を与えられました。しかし、それが管区の司教の嫉妬を招き、住み慣れた教区を移されそうになります。
 ショックを受けた神父は休暇を取り、選挙に敗れた元町長でコミュニストのサンチョとともに、ロシナンテにマンチャワインを沢山積んで、小さな旅に出ることにしました。

 先ほど「正統派」と書いた理由は、『ドン・キホーテ』の神髄をしっかりと押さえているから。
 旅に出たキホーテ神父とサンチョが巻き込まれる事件は『ドン・キホーテ』をなぞっていますし、ふたりの饒舌な対話が読ませどころである点も本家とそっくりです。
 カトリック信者、共産主義者として知られているグリーンですから、神父はカトリックの立場から、サンチョはマルクス主義の立場から議論をするわけですが、互いに相手を打ち負かしてやろうという攻撃的な意図はありません。ふたりとも大抵は酔っ払っているものの、しつこくからんだり、声高に罵ったりはせず、終始なごやかなムードで進むのです〔こうした設定は、ジョヴァンニ・グァレスキの『ドン・カミロ』シリーズにも似てるが、あちらはもっと険悪(本当は仲がよいけど)で乱暴〕。

『キホーテ神父』は、グリーンのほかの著作(『権力と栄光』や『おとなしいアメリカ人』など)と同様、カトリシズムとコミュニズムの対立という構図を取っています。けれども、この本が書かれたのは、それらから半世紀近く後(スペインではフランコの死後)のことです。
 カトリシズムもコミュニズムも、最早、痛烈なイロニーを利かせる対象ではなく、自虐的な笑いと哀愁で包むべき生きた化石になっているともいえます。つまり、キホーテ神父とサンチョ町長は、どうしようもなく古めかしく、滑稽で、だからこそ愛すべき存在でもあるのです。
 それは正に、滅びゆく騎士道を象徴したドン・キホーテそのものではありませんか。

 人気作家のグリーンにもかかわらず、これが文庫にもならず絶版のままなのは、上記のとおり日本人が好まないネタを扱っているからでしょう。おまけにパロディであることも、読者対象を狭めてしまったのかも知れません。
 けれど、『ドン・キホーテ』を読んでいなかったとしても、あるいは宗教や政治にそれほど興味がなくても、ロードナラティブ、バディものとして十分に楽しめる作品です。

 キホーテ神父の純粋さと善良さ、そして枯れた味は、ひょっとすると老齢のグリーンだからこそ表現できたのかも知れません。一方で、サンチョの方は飽くまで俗っぽく、その対比は、単純ですが鮮やかに決まっています。
 三位一体説をワインの大瓶と小瓶で説明してしまったことを反省したり、中絶が認められる唯一のケースについて馬鹿馬鹿しい議論をしたり、知らずに案内された淫売宿で無邪気にコンドームをふくらませたり、酒場のトイレで告解を聞いたりといった珍道中の先に、今際の際に騎士道を捨てたご先祖とは対照的な結末が待っています。
 小粒ですが、味わい深い名品です。

『キホーテ神父』宇野利泰訳、早川書房、一九八三

ドン・キホーテ』関連
→『ナボコフのドン・キホーテ講義ウラジーミル・ナボコフ
→『贋作ドン・キホーテアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダ
→『ドン・キホーテキャシー・アッカー
→『ケストナーの「ほらふき男爵」エーリッヒ・ケストナー
→『ドン・キホーテのごとく ―セルバンテス自叙伝』スティーヴン・マーロウ

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