The Eighth Square(1973)Herbert Lieberman
ハーバート・リーバーマンの『魔性の森』(写真)では、日本人に馴染みの薄い英国の風習が重要な役割を果たします。
まずは、それについて説明します。
イングランドやウェールズには、ビーティングザバウンズ(Beating the Bounds)、あるいはパラムビュレーション(Perambulation)」と呼ばれる古い慣習があります。これは地図がなかった時代、教区を歩いて巡回し、測量したことに由来します。
『魔性の森』の舞台となるのは米国のニューイングランドですが、ここは英国の伝統が色濃く残る地域として知られています。誰かが新しく土地を所有すると、その人は測量人、隣接地の所有者を引き連れ、それぞれの縄張りを確認するため徒歩巡回を行なうのです。
新しく土地を所有した医師のウィロビー・ハロルド・ゲイジは、ベテラン測量人のアルバート・ロジャース、助手のトム・プトニー、隣接地のレオとグラディスのガーヴィックス夫妻、フレディとシビルのジャミソン夫妻、ジョン・ベイルス、オルリー・ゲルストンを連れ、森のなかを歩き回ります。
ところが、日が暮れた頃、唯一地理に詳しいロジャースが倒れ、譫妄状態になってしまいます。彼は、測量の数値を譫言のように呟くだけの廃人と化したのです。
そのせいで、皆は森のなかを当てもなく彷徨うことになります。
九人には、明らかだったり、隠されていたりする関係や確執があります。
前半は、それらが少しずつ垣間みえ、それぞれの性格や経歴なども語られます。いずれ訪れる恐怖を最大限に生かすための餌撒きと思いきや、この小説の場合はちょっと違います(後述)。
第二部に入ると、鬱蒼とした底なしの森で迷子になり、パニックを起こす人物や、醜い争いが起こります。しかし、基本的には一章と同じように不毛なやり取りが続きます。
ホラーや幻想小説であれば、異形の者が現れたり、ひとりずつ姿を消したり、殺し合いが始まったりするでしょうが、そうした気配はなく、ただ森を抜けられないという事実だけが提示されます。
第三部で、弱っていたロジャースが亡くなります。これで帰路を知る者はいなくなりました。
しかし、ベイルスは気づきます。ロジャースは譫言をいっていたのではなく、帰り道をずっと教えてくれていたことに……。
実をいうと、ベイルスは自分を孤児の境遇に落としたロジャースに強い恨みを抱いていました。しかし、唯一、森を恐れなかったロジャースの言葉を信じますが、ほかの八人は納得しません。そして、別々の道を進むのです……。(※)
この作品をホラーと呼ぶかどうかは大いに悩みます。
ニューイングランドに広がる原始の森を知る者にとっては、圧倒的な自然の脅威に、なす術もなく翻弄される人間の無力さを恐怖と感じるかも知れません。
ですが、それだけでは、どうしても物足りなさが残ります。
『魔性の森』は、まるで戯曲のように、同一の舞台、同じ登場人物(途中でひとり減るが、冒頭の九人から誰ひとり加わらない)、均一な時間の流れを採用しています(エピローグ以外)。
また、劇的なできごとや新しい展開がないため、途中でかなり飽きてきます。登場人物に魅力がない点も少々辛いところです。
さらに、ようやく凶行が描かれるのはラスト数頁になってからで、それも「かれはかみそりを折りたたんでいる。両手から血がしたたり落ちた」という描写のみです。
強いていえば、ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」のように、人間の心理を描くことでゾッとさせるタイプの小説に分類されるでしょうが、それほど巧みではありません。
恐らくリーバーマンは、古くから存在するものが、どのように人と共存してきたのか。そして、掟を破ると人間の精神にどのような影響を齎すのかを描きたかったのだと思います。
原題の「The Eighth Square」とは、チェスでポーンが八段目に達すると、ほかのコマにプロモーション(昇格)できることを意味しています。
いうまでもなく、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』で、アリスが女王に昇格したことを暗示しているのです。確かに、アリスが迷い込んだ不思議の国のように、『魔性の森』は人間のグロテスクな本性を剥き出しにします。
また、チェスはマスによって区分けされていますが、測量とは自然を支配するため、勝手に境界を定めてしまうことです。
これは不遜な行為であり、古代から存在する森が、愚かな人間に悪夢をみせたとも読めるでしょう。
そして、悲劇のルーツが、彼らの子ども時代に遡るらしいことがエピローグで語られるのは「先人たちの知恵を疎かにした彼らには天罰が下る運命だった」といいたかったようです。
『魔性の森』は、奇しくもトマス・トライオンの『悪魔の収穫祭』と同じ年の出版です(スティーブン・キングが『キャリー』でデビューする一年前)。
素材は悪くないので、来たるべきモダンホラーの流行を予測し、恐怖小説に振り切っていたら、画期的な作品になっていたかも知れない点が勿体なく感じました。
※:袖のあらすじには「やっと森を抜けた彼らの身には」と書かれているが、最後まで、誰も森からは出ていない。
『魔性の森』斎藤伯好訳、角川文庫、一九八二
『不思議の国のアリス』関連
→『サセックスのフランケンシュタイン』H・C・アルトマン
→『パズルランドのアリス』レイモンド・スマリヤン
→『黒いアリス』トム・デミジョン
→『未来少女アリス』ジェフ・ヌーン
→『不思議な国の殺人』フレドリック・ブラウン