読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『皇帝に捧げる乳歯』フリッツ・フォン・ヘルツマノヴスキィ=オルランド

Der Gaulschreck im Rosennetz(1927)Fritz von Herzmanovsky-Orlando

 フリッツ・フォン・ヘルツマノヴスキィ=オルランドは生前、無名で、唯一刊行された小説が『皇帝に捧げる乳歯』(写真)です。
 原題は「薔薇の網目にからめとられた駑馬のお化け」という意味だそうで、そこからも分かるとおり奇想天外でナンセンスな作品です。そのせいで全く売れなかったらしい。

 ジャンルとしては、宮廷を舞台にした恋愛小説です。バロック文学、豪華絢爛、馬鹿騒ぎ、お気楽貴族といった言葉から連想されるイメージどおりの作品ともいえます。
 読書感想文で扱ったものとしては、ドニ・ディドロの『お喋りな宝石』や、ブライアン・W・オールディス『マラキア・タペストリ』に近いかも知れません。ただし、それらよりも遥かに風変わりですが……。

 宮廷喇叭管理局配属宮廷書記官のヤロミール・エドラー・フォン・アインフーフは、若く美しい青年。恋人は、元宮廷侏儒のツンピの娘です。
 乳歯を蒐集するのが趣味のアインフーフは、皇帝の統治二十五周年のお祝いに、可愛い生娘の乳歯を二十五本使ったタブローを贈る予定です。乳歯は二十四本集まり、最後の一本として、花形女優のヘルトイフェルのものを手に入れようとします。
 仮面舞踏会に、蝶の扮装をして出席したアインフーフでしたが、ヘルトイフェルには素気なく断られ、騒動を起こし新聞に報道されてしまいます。しかし、ヘルトイフェルに心を奪われたアインフーフは、老婆から媚薬を購入し、彼女に飲ませようとするのですが……。

 マリア・テレジアルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテらの名前で出てくるので、舞台は十九世紀初頭のオーストリア帝国です。
 当然、皇帝はフランツ二世(オーストリア皇帝フランツ一世)で、在位二十五年ということは一八二九年頃になりますが、この時点でベートーヴェンは亡くなっているので計算が合いません。
 それとも、神聖ローマ皇帝時代から数えるのでしょうか。それであれば一八一七年頃ですが、そもそも架空のオーストリアなのかも知れません。

 まず、目につくのが、登場人物の肩書や名前です。
 枢密宮廷侏儒、皇室種馬苗裔証明監督官、マリア・テレジア修道会付属甲虫蒐集展示室埃払い、耳掻き棒鍛冶工などなど、長ったらしくて珍妙なものばかり。
 人名や地名も同様にヘンテコらしいのですが、そのまま仮名表記にしてあり、注釈もついていないので、おかしさは伝わりません。ひとつひとつ説明したり、無理に日本語に訳すのを煩わしいと感じたのでしょうが、少し寂しいですね。例えば、ノイロニムス・ノドゥルス・フリーゼルの『ランゲルハンス島航海記』は、駄洒落をなるべく日本語にすべく努力しており、好感が持てました。
『皇帝に捧げる乳歯』の場合は、ドイツ語が分からないのなら、かなり珍妙な名前ばかりであると思うしかありません。ちなみに、ヒロインのヘルトイフェルは、地獄(Hölle)と悪魔(Teufel)のカバン語です。

 宮廷の人々の物語なので、家柄や役職が何よりも重要になります。
 小人の娘は、中年で、魅力も乏しいのですが、この一家の一員になれるのは名誉なことです。一方、ヘルトイフェルは宮廷歌手の肩書こそ持つものの、身分は低く、家族に猛反対されることは必至です。
 アインフーフは、それでも愛を選ぶ、というと格好いいのですけれど、彼女に全く相手にされないのが笑えます。仕方なく、彼は媚薬を買い、ふくよかな小間使いを誘惑して、ヘルトイフェルに近づこうとします。

 実をいうと、宮廷の人事はなかなかシビアで、些細なことで、多くの人が失脚してゆきます。騒ぎを起こしたアインフーフも、宮廷書記官の地位は風前の灯です。
 しかも、袖にした小人の娘は失恋のショックから別の男に走り、家を追い出されてしまいます。
 地位も財産も名誉も期待できなくなったアインフーフとしては、愛というよりも、何としてもフルトイフェルを手に入れるしかないところまで追い詰められるわけです。

 結末は記しませんが、ナンセンスと奇想に溢れつつ、普遍的なテーマと分かりやすい筋書きを有しています。
 また、スラップスティックのような面白さや、衝撃的なオチも備えているので、喜劇映画としても成功しそうです。

 加えて、絵も上手かったヘルツマノヴスキィ=オルランドは、数千点に及ぶスケッチを遺しており、この本にも本人が描いた挿絵がふんだんに収められています。
 彼の生業は建築家で、小説同様、イラストも生前は売れなかったようですが、可愛くてユーモラスなので、眺めているだけで楽しい気分になります。

 この本が当時、完全に無視されたとなると、やはり訳者がいうように「薔薇の網目にからめとられた駑馬のお化け」なんてタイトルがいけなかったのでしょうか。尤も、邦題の『皇帝に捧げる乳歯』だって、何のこっちゃという感じですが……。
「宮廷書記官の恋」といった普通の題名にしておけば、歴史は変わっていたかも知れませんね。

『皇帝に捧げる乳歯』池内紀訳、牧神社、一九七六

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