L'Hôtel du Nord(1929)Eugène Dabit
ウージェーヌ・ダビの『北ホテル』(写真)は、僅か三年の間に三笠書房、角川文庫、新潮文庫から刊行されました。訳はすべて岩田豊雄(獅子文六)です。
マルセル・カルネ監督の映画『北ホテル』が日本で公開されたのが一九四九年ですから、それに合わせた出版だったのでしょう。
ちなみに、ルネ・クレール監督の『巴里祭』が日本で公開されたのは一九三三年ですが、この本では「巴里祭」ではなく、「七月十四日祭」と訳されています。
『北ホテル』は、第一回ポピュリスト賞を受賞していますが、ポピュリスムというのは、プロレタリア文学とも大衆文学とも少し違うそうです。
いわば、庶民の生活をリアリスティックに描いた作品で、このブログで取り上げたものではマルセル・エイメの『名前のない通り』がそれに該当します。ロシア文学ならマクシム・ゴーリキーの『どん底』、日本でいうと山本周五郎の『青べか物語』や『季節のない街』が、味わいとしてはよく似ています。
また、リアリズムというのがポイントで、北ホテルはパリに実在し、ダビの両親がこのホテルの所有者でした(※)。
パリのサンマルタン運河沿いにある、中長期滞在者向けの「北ホテル」。エミール・ルクーヴルウルはせっせと金を貯め念願のホテルを買い取り、妻ルイーズとともに経営に乗り出します。
ここに集うのは、男も女も、貧しい労働者がほとんどです。彼らの人生模様があっさりとした筆致で描かれます。
メインのストーリーはなく、北ホテルに出入りする者たちの数多くの挿話から成り立っています。また、全編で重要な役割を果たす主人公もいません。
ダビの両親がホテルの経営者だったので、エミールの息子モーリスがダビの幼少期に当たるのでしょうが、彼の視点からみた大人たちといった構図でもありません(それどころか、モーリスはほとんど登場しない)。
それぞれのエピソードは、正に写実的で、劇的なできごとがありません。だからこそ、よりリアリティを感じさせます。
というのも、その日暮らしの彼らの人生は、余り代わり映えがしないからです。仕事にゆき、酒を飲んで、カードをして、寝て、また仕事にゆくというのが、ひたすら繰り返されます。蓄えがないため歳をとっても働き続け、いよいよとなったら養老院にゆくしかないのです。
そこに至るまでの、本当に小さな喜びや哀しみを、この小説では拾い上げており、それが読者の心に染みます。
唯一の例外は、ルネという、男に騙されて田舎から出てきて、北ホテルで働くようになる少女です。
彼女のエピソードは断続的に描かれ、妊娠、男に逃げられる、出産、息子との死別、堕落、追放といった具合に坂道を転げ落ちてゆきます(後釜のジャンヌも同じような道を辿る)。
ただし、ルネやジャンヌはまだ若いので、未来はいかようにも変えられます。そこが、北ホテルに吹き溜まる人々と大きく異なる点です。
彼女たちがホテルという舞台から姿を消したのは、もしかすると、次のステージに向かったことを暗示しているのかも知れません。
各編は精々十頁足らずなので、複雑な人間関係や詳細な生い立ちなどは書かれない。それは、ホテルを仮の宿として通り過ぎてゆく人々の人間関係を象徴しているように思えます。
北ホテルのホテルで酒を酌み交わし、噂話をし、カードに興じながら、実をいうと彼らは、互いのことをそれほど知ってはいないのです。
それでも、誰かが落ち込んでいる様子だったりすると、何も聞かず酒を奢ります。その絶妙な距離感こそが、この小説を優れたポピュリスムたらしめている所以ではないでしょうか。
今の時代に、この小説を読んで感じる心地よさも、正にその点にあります。人間関係が希薄な社会に住んでいると、貧しい者たちが支え合って生きる姿が羨ましく思えるのです。
現代において貧困が問題になるのは、孤立や家庭という密室で何が起こっているか分からないという面が大きいと思います。なかなか表面に表れず、周囲が気づくのが遅れたり、援助の手が届かなかったりすることが事態をより深刻にしています。
自己責任という名の無関心が大手を振っていれば、弱者はますます目のつかない場所に潜り込んでしまうでしょう。
『北ホテル』の住人は、貧しく、そこから抜け出すための希望の光はみえませんが、引きこもりや孤独死とは無縁の温かさに満ちています。
※:物語の最後に取り壊されるが、それは事実ではないのかも知れない。北ホテルは現在、レストラン&カフェとして改装されている。
『北ホテル』岩田豊雄訳、新潮文庫、一九五四
Amazonで『北ホテル』の価格をチェックする。