読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン

L'Équarrissage pour tous(1950)Boris Vian

 以前にも書いたとおり、高校生の頃、フランス文学にかぶれていました。
 志賀直哉じゃありませんが、フランス語で書かれた文学は格上と考えていたんですね。ひとつの国を特別視するなど無知故の思い込みに過ぎませんが、今となっては恥ずかしい記憶というより、「若さっていいなあ」としみじみ思ったりします(「僕の生涯のベスト3に入る傑作です!」と中学生が書いているのを微笑ましく感じるのと同じ)。

 さて、ダダイストシュルレアリスト、ウリポなど様々な作家を試したなかで、特に影響を受けたのがアルフレッド・ジャリボリス・ヴィアンでした。
 ヴィアンもジャリ同様、多才、前衛的、パタフィジシャンで、早世し、作品が発禁になり……と馬鹿な高校生が憧れる要素を数多く持った作家です。

 当時、少し大きな書店には大抵、刊行されたばかりの「ボリス・ヴィアン全集」(早川書房)が並んでおり、僕はまずそれを揃えました。この全集はほとんどが千円以下で買えたので、高校生にも集めやすかったのです(その後、価格の改訂があった)。
 ただ、この時点で訳されたものはほぼ読み切ってしまい、以後『日々の泡(うたかたの日々)』以外は読み返した記憶もないため、今ではぼんやりとした印象しか残っていません。熱狂した分だけ冷めるのも速かったようですね。

 ところで、ヴィアンは数こそ少ないながら戯曲も書いていて、日本では『屠殺屋入門』(写真)と『帝国の建設者』(写真)の二冊が刊行されています。
『墓に唾をかけろ(お前らの墓につばを吐いてやる)』の脚本もヴィアン自身が書き、上演はされたものの、書籍にはなっていないようです(小説版とは異なる点があるらしい)。

『屠殺屋入門』は、生田耕作が作った出版社「奢灞都館(さばとやかた)」から刊行されました。限定版(九百七十部)もありますが、僕が持っているのは普及版です。そのせいか、安価でよくみかけます。
 本に挟まっている「出版案内」には「低俗と量産の時代に、敢て問う誇り高き少数者の声。瓦礫文化の底から、埋れた結晶群の美を探る、〈反時代的〉コレクション! 細心の編集と瀟洒な造本で贈る」と書かれています。小出版社の矜持が感じられ、思わず胸が熱くなります。

 折角ですから、今回は翻訳されているヴィアンの戯曲をすべて取り上げることにします(ピンク字は『帝国の建設者』に収録されているもの)。

屠殺屋入門」L'Équarrissage pour tous(1950)
 一九四四年六月六日、連合軍の二百万の兵士がドーバー海峡を渡り、ドイツ占領下のフランスに上陸した「ノルマンディー上陸作戦」。
 その当日の朝、近くの村アロマンシュの屠殺屋での一幕です。

 これといった筋はなく、数多くの登場人物が入れ代わり立ち代わり現れ、ほとんど意味のない会話を交わします。
 一応は「四年間も居候しているドイツ兵の子を娘が宿しているかどうか」という謎がメインとなりますが、実はそんなこと大して重要ではありません。

 娘ふたりの名前がどちらもマリーなのは、互いの連れ子という可能性もあるのでよいとして、母親までマリーなのは悪ふざけでしょう。
 実際、芝居はどんどん過激になってゆき、アメリカ兵とドイツ兵がカードをして、お互いの制服をすっかり取り替える羽目になったり、落下傘で降下してきた日本兵がいきなり切腹したりと滅茶苦茶な場面が続きます。
 そして、最後はフランス軍の将校の命令で屠殺屋は爆破され、ラ・マルセイエーズが鳴り響くのです。

 戦後間もない時期だったので、レジスタンスの英雄を茶化していると相当叩かれたそうです。
 今読むと誰も彼もが狂っていて、どの国にも肩入れしていない点が気持ちよい。戦争の馬鹿馬鹿しさを表現するためには、これくらいの出鱈目が必要なのでしょう。

 ちなみに、生田耕作はこれを似非東北弁(役割語)で訳しています。しかも、かなり大胆に用いており、意味が取りにくい箇所もあります。
 現代であれば、もう少し違うアプローチがあったかも知れませんね。

帝国の建設者」Les Bâtisseurs d'Empire(1959)
 父(※)、母、思春期の娘、女中という家族。部屋の外からは奇妙な音が聞こえ、家族はそれを恐れるかの如く上の階、上の階へと上り続けます。上へゆくほど部屋は狭くなってゆきます。
 部屋の隅にはシュミュルツがいます。彼は全身を包帯でぐるぐる巻きにし、片腕を吊るし、杖をつき、血まみれの男です。科白は一切なく、皆に暴力を振るわれるシュミュルツ。
 しかも、彼はこの部屋だけでなく、隣の家などあちこちにいるようです。

 ヴィアン最後の戯曲です。
 これまでのシナリオと比べると、明らかに完成度が高くなっています。

 異様な存在感のあるシュミュルツには科白がなく、ほかの役者も彼の名前を一度も口にしないため、観客はシュミュルツという固有名詞すら知らされません。
 果たして、彼は何者なのでしょうか。

 部屋の外から聞こえる音は、目にみえない脅威です。どうも戦争が起こっているらしいのですが、具体的な状況が不明だけに、得体の知れない恐ろしさがあります。
 一方、シュミュルツは姿は不気味ではあるものの、常に視界に入っているため恐怖が次第に薄らいでゆきます。実際、彼は殴られたり蹴られたり鞭で打たれたり、皆のストレス解消のために存在しているようにもみえます。
 つまり、シュミュルツのグロテスクな外見は人々の不安や恐れを表し、それを打ちのめすことで彼らは精神の安定を図っているのではないでしょうか。

 最後の幕は、たったひとりで屋根裏部屋に辿り着いた父親のひとり芝居ですが、ひとりぼっちになったからこそ「内面に潜んでいた大勢のシュミュルツ」に襲われたのかも知れません。
 ユーモアと狂気が融合した優れた不条理劇です。

メドゥーサの首」Tête de Méduse(1951)
 リュシーの夫アントワーヌがクロードのアパートにやってきます。リュシーは六か月に一度、浮気相手を変えており、アントワーヌはクロードが新しい愛人だと思っています。
 しかし、リュシーは半年に一度、整形手術で顔を変える男と十六年間つき合っていたのです。

 事故で不能となったアントワーヌは、妻に愛人を与えました。なぜなら、彼は苦痛を感じないと仕事ができないマゾだから。
 リュシーの方も相手を変えるのは嫌なので、顔を変えた同じ相手とつき合っていましたが、その男は手術の失敗で角が生えてしまいます。これは、コキュ(寝取られ男)には角が生えるという俗説が現実化されたギャグですが、面白いのは浮気相手の方に角が生えてしまうこと。

 尤もそれは、ラストでリュシーが新しい愛人クロードと逃げてしまうことを表しているのでしょう。
 伝統的なブールバール劇に、ヴィアンらしいブラックな味つけをした小品です。

最高の職業」Le Dernier des métiers(1950)
 タレント並みに人気のある神父の楽屋で、国営放送のインタビュアー、香部屋係の老人、ボーイスカウトの少年たち、警官などがドタバタを繰り広げます。

『屠殺屋入門』を上演する際、時間が余ってしまうため大急ぎで書かれた寸劇です。しかし、瀆神的であるとされ、上演できなかったそうです。
 原題は「最低の職業」という意味で、芸能人を指しますが、最高の職業である聖職者がタレントに堕ちてしまうことを皮肉っています。

スケッチ「各人各蛇」A chacun son serpent(1947)
 アダムとイブは、ニューハーフの蛇に出会います。ふたりは林檎を食べたのではなく、言葉を発明したことによって無邪気さを失ってゆきます。

「各人各蛇」と「車」は『Petits spectacles』というコント集に収録されています。
 タイトルは、ルイジ・ピランデルロの「各人各説」Ciascuno a suo modoのもじりだそうです。

スケッチ「」Les voitures(?)
 近未来のフランス。渋滞がひどすぎて、何日も同じ場所から進みません。「交通渋滞」という名の新聞には「車が一メートル進んだ」などというニュースが載っています。
 ま、そうした設定の馬鹿馬鹿しさだけのコントで、大したオチはついていません。

※:この家族は、アロマンシュで屠殺屋をやっていた。

『屠殺屋入門』生田耕作訳、奢灞都館、一九七九
『帝国の建設者』ボリス・ヴィアン全集8、利光哲夫、伊東守男訳、早川書房、一九八二


→『サン=ジェルマン=デ=プレ入門』ボリス・ヴィアン

戦争文学
→『黄色い鼠井上ひさし
→『騎兵隊』イサーク・バーベリ
→『』ワンダ・ワシレフスカヤ
→『イーダの長い夜』エルサ・モランテ
→『第七の十字架』アンナ・ゼーガース
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング
→『三等水兵マルチン』タフレール
→『ムーンタイガー』ペネロピ・ライヴリー
→『より大きな希望』イルゼ・アイヒンガー
→『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス
→『虚構の楽園』ズオン・トゥー・フォン
→『アリスのような町』ネヴィル・シュート
→『審判』バリー・コリンズ
→『裸者と死者ノーマン・メイラー

戯曲
→『ユビュ王アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメスピエール・アンリ・カミ
→『大理石ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『ヴィオルヌの犯罪マルグリット・デュラス
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ
→『作者を探す六人の登場人物ルイジ・ピランデルロ

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