Moon Tiger(1987)Penelope Lively
エジプト生まれの英国人ペネロピ・ライヴリーのブッカー賞受賞作。
彼女は児童文学者としても著名で、『トーマス・ケンプの幽霊』ではカーネギー賞も取っています。が、やはり注目すべきは歴史を題材にした長編でしょう。
翻訳されている長編はまだ少ないのですが、『ムーンタイガー』(写真)にしても、『ある英国人作家の偽りと沈黙』(1984)にしても、いわゆる過去を掘り起こす人の物語です。
読みやすさでいうと『ある英国人作家の偽りと沈黙』(仰々しい邦題がついているけど、原題は『According to Mark』という)に軍配があがります。
物故作家の隠された真実が次第に暴かれてゆく展開は、ミステリー小説のような面白さを備えている上、実在の文学者やその作品への言及が豊富で、英国文学好き、はたまた読書好きにとっては堪りません。
伝記作家であるマークと、彼が追いかけている作家の孫娘キャリーの恋愛も、普通の恋愛小説とは趣が違っています。「禁断の恋に堕ちたふたり……」なんて鬱陶しい話ではなく、「本を読む人種」が「読まない人種」を好きになり、価値観を崩壊させてゆく様がとても気持ちよいのです。
作中にも「生まれや経済状態と同じくらい、何を読み何を読まなかったかということが、隣人との距離をきめる」なんて書かれており、読書好きな方なら大きく頷かれると思います。ですが、いうまでもなく、そんなことにこだわるのは、本に心を支配されている人くらいです。
主人公は、そんな当たり前のことをたびたび忘れてしまい、孫娘と気まずい雰囲気になります(例えば、ドーチェスターのことをキャスターブリッジといったりする。キャスターブリッジとはトマス・ハーディの小説における地名である。鷲宮神社を鷹宮神社と呼ぶみたいなものだろう)。
飲み屋で知り合った美女に「私、セベロ・サルドゥイが好きなんです」といわれるくらいあり得ない設定ですが、妄想癖のある本好きなら却ってリアルに感じてしまうところがツボを突いてくるなあという感じです。
結局、ふたりの恋は始まりもしないで終わり、それぞれ元いた世界に戻ってゆきます。本を読む者と読まない者は、住んでいる次元が異なるということなのでしょう。
それと比べると、『ムーンタイガー』は少々手強い……。
まずは、あらすじから。
年老いたクローディア・ハンプトンは、病院のベッドで二十世紀の歴史、そして自らの人生を振り返ります。
一歳上の兄に対抗意識を燃やした幼少時、愛人とのドライな関係、シングルマザーとして娘とのかかわり、ひょんなことから世話をするようになったハンガリー人の美大生……。そして、第二次世界大戦中、女性通信員としてエジプト(北アフリカ戦線)に赴き、そこで戦車隊を率いる将校と恋に落ちたことなどが、次々に思い出されるのです。
女性の描く戦争文学で、戦地(出征地)が舞台となるのは非常に珍しい。そういう意味で、幼少時カイロに住んでいたライヴリーだからこそ書くことができた小説といえるかも知れません。
実際、様々な人種や言語が混じり合う混沌としたカイロの雰囲気がよく表現されており、それは文献ではなく、少女時代の記憶がものをいったのでしょう。
ちなみに、表題のムーンタイガーとは、蚊取り線香のブランド名です。カイロの夜、ムーンタイガーと恋人の吸うキャメルの火が、ふたつの赤い目のようにみえるという印象的な場面があります。
だからといって、戦時下の恋のみがこの小説を形作っているわけではありません。それは飽くまでクローディアの人生の一部にすぎないのです。
ある人物の一生と歴史を重ね合わせた物語の場合、極めて主観的に描かれるのが一般的です。
『ムーンタイガー』の場合なら、死期が近いクローディアの取り留めのない回想によって、戦争や革命が彼女をいかに翻弄したのかを表現するのが最も自然かも知れません。
実際、この小説では、ごく短い断片が、バラバラの時系列になっており、いかにも老婆の混沌とした思い出という感じがします。その形式が最も効果を上げているのは、恋人の将校の死から流産まででしょう。この部分は、ほかよりもさらにブツ切れな記述になっており、大きな衝撃に連続して襲われたクローディアの精神状態を十分想像できます。
一方で、『ムーンタイガー』は、クローディアの一人称による自伝的部分だけでなく、複数の人物の視点、入院中のクローディアの描写、戦闘中の将校の手記、歴史的記述などが入り混じった構成になっています。
しかも、同じ場面が、視点人物を変えて、連続して語られたりもする。重大な事件が複数の視点で捉えられるというのなら分かりますが、些細な日常の一場面の描写が頻繁に繰り返されるのです。
これによって、意図的にせよ無意識にせよ、主人公が過去を都合よく捻じ曲げていないことが保証されます。歴史は、ひとりの主観によって形成されるべきものではないという作者の主張を強烈に感じるところです。
ひょっとするとそれは、人類の歴史といった大きなものだけでなく、個人の生涯にも当てはまるのかも知れません。
当然のことながら、クローディアという人間は、他者によって作られます。母、兄、義姉、恋人、愛人、娘などかかわり合う人物次第で、役割も評価も違ってくるのです。
そのどれもが真実であり、偽りでもある。それを正確に描き出そうとすれば、このような手法を採らざるを得なかったともいえます。
ところが、それに異議を唱えるのは、誰あろうクローディアなのです。
彼女は、娘でも、妹でも、愛人でも、妻でも、母でもない。誰かにとっての自分ではなく、私はクローディア自身である、と主張します。
これはある意味、作者に対する登場人物の反抗といえるのではないでしょうか。
尤も、彼女がそう叫びたくなる理由は分からなくもないのです。
クローディアは、美しくて、知的で、行動力を備えており、「魅力的な女性の人生は、平凡な女性の人生とは違う」と自己評価しています。実際、人も羨む女性であることは間違いありませんが、『ある英国人作家の偽りと沈黙』のキャリーのような個性は感じられない……。
このままでは、他人の歴史のなかにおいて、「素晴らしい女性だけれど、自分にとっては価値がない」とされてしまい兼ねない人物なのです。事実、心底彼女を必要とする人物は現れません(極限状態におかれていた将校は別として)。
強いが故に、他人を必要としないし、他人にも必要とされない……。彼女が唯一愛したと思われるのは、戦地で亡くなった恋人でも、実の娘でもなく、兄のゴードンですが、その理由は彼が最も自分に似ているからというものです。近親相姦はナルシシズムと密接な関係があるとクローディア本人が認めているように、兄はまるで鏡のような存在です。
そう考えると、彼女は最初から、彼女自身のために独自の歴史を紡いだといえるのです。
クローディアは「歴史とは、死と混乱と荒廃なのだ」と語ります。そして、世界史にせよ、個人史にせよ、証言を積み重ねれば積み重ねるほど、真実に近づくどころか、ますます混沌としてくることがあります。
これは、できるだけ多くの目によって歴史を捉えるという先ほどの話と矛盾します。しかし、ライヴリーはその撞着を、敢えてそのまま提示したのかも知れません。
『ムーンタイガー』は、どこをどう読み取るかは読者次第という、最も厳しい読み方を要求されるタイプの小説であり、堪能するにはそれなりの覚悟が必要となります。
歯応えのある文学とがっぷり四つに取り組みたいとき、お勧めの一冊です。
『ムーンタイガー』鈴木和子訳、朝日出版社、一九九三
戦争文学
→『黄色い鼠』井上ひさし
→『騎兵隊』イサーク・バーベリ
→『虹』ワンダ・ワシレフスカヤ
→『イーダの長い夜』エルサ・モランテ
→『第七の十字架』アンナ・ゼーガース
→『ピンチャー・マーティン』ウィリアム・ゴールディング
→『三等水兵マルチン』タフレール
→『より大きな希望』イルゼ・アイヒンガー
→『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス
→『虚構の楽園』ズオン・トゥー・フォン
→『アリスのような町』ネヴィル・シュート
→『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン
→『審判』バリー・コリンズ
→『裸者と死者』ノーマン・メイラー