読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『騎兵隊』イサーク・バーベリ

Конармия(1926)Исаак Бабель

「読書感想文」では、なるべく様々な国・時代の小説を扱いたいと思っているのですが、ついつい米国の作家が多くなってしまいます。元々英米文学を読む比率が高いこともありますが、もうひとつの理由として、出版社の問題があります。
 アメリカ文学の話題作は、大手の出版社から刊行されることが多く、これらはあっという間に絶版になってしまいます。一方、例えば東欧の小説などは小さな専門出版社から発行され、何十年も売り続けてくれたりします(僕が勤めている出版社もそう。一九七〇年代に発行した本を、増刷もせず、まだ在庫している)。
 読者としては、後者の方がありがたいのですが、このブログでは絶版本を主に扱うと決めたため、選ぶことができません……。そういう意味で、今回は珍しくロシア文学です。

 イサーク・バーベリは、ウクライナ出身のユダヤ系作家。同じウクライナの作家でいうと、ミハイル・ブルガーコフとほぼ同年代で、亡くなったのも同じ頃です。ただし、バーベリの最期は、スターリン政権の粛正の対象となり、銃殺刑に処せられるという悲惨なものでした。
 短編の名手とされていますが、長編はひとつも残していないため(断片のみ)、比較することができません。また、その短編も数は非常に少なく、『騎兵隊』(写真)と『オデッサ物語』の二冊に、主要なものはほぼ収められています。
 時代が時代なら、別の顔がみられたかも知れないと思うと、残念でなりません(勿論、制約を受けた作家は、ほかにも大勢いる。例えば、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』は傑作だと思うが、飽くまで草稿に過ぎず、やや中途半端な印象を受ける。また、ダニイル・ハルムスは児童書を書かざるを得なかった)。
 スターリンに何度も出国を求めたブルガーコフや、晩年に帰国したマクシム・ゴーリキーと異なり、バーベリはソ連共産党を信頼し、家族が亡命してもソ連に残ったそうですから、余計に複雑な気持ちになります。

 さて、『騎兵隊』は、ポーランドソビエト戦争で、ブジョンヌィ将軍の第一騎兵隊のポーランド遠征に、ロスタ通信特派員として従軍したバーベリの体験を元にした短編集です。といっても、いわゆる記録文学、戦争文学とはひと味違います。

『騎兵隊』の魅力のひとつは、その構造にあります。
 バーベリは、単行本化する際、三十四の短編(版によっては三十五編)を選択し、配列したそうです。ただし、その順序は一見バラバラ。しかも、原稿は、雑誌に掲載された後、ほとんど手を加えていないといいます。そのため、各エピソードの時間的・空間的つながりが曖昧になってしまいました。分かりやすさは犠牲になりましたが、その代わりに普通の連作短編とも長編とも違う、不思議な魅力が生まれました。
 真の意図については色々考察されているようですけれど、生涯に短編しか遺さなかったバーベリにとって、各紙に発表した短編を再構築することは、大きな意味のある作業だった(実験でもあり、楽しみでもあった)のではないかと僕は思います。

 また、文体も、とても特徴的です。
 ヘミングウェイが絶賛したのも頷ける簡潔で乾いた描写、絶妙な比喩。その上、戦争の悲惨さを目の当たりにしながらも、どこか陽気で楽天的です(暗闇で立ち小便をした後、懐中電灯で下を照らしてみると、死んだポーランド兵の口のなかに小便が溜まっていたとか)。
 バーベリはロシア語で小説を書いたとはいえ、黒海に面した港町オデッサで生まれ育ったユダヤ人ですから、伝統的なロシア文学の影響を余り受けていないのかも知れません。
 さらにいうと、差別やポグロムユダヤ人に対する集団虐殺・虐待)を経験している彼にとって、理想的な未来をもたらす可能性がある革命を歓迎する気持ちもあったのでしょう。

 一方で、そうした出自のせいか、最前線にいながら、どうしてもよそ者という感じが拭えない。それぞれのエピソードでは、粗野なコサック、ロシアやポーランドの農民、ユダヤ人、カトリックの神父など、人種、信仰、思想の異なる人たちに焦点が当てられますが、語り手のリュートフ(作者の分身)は、彼らの人生を冷静にみつめてゆきます。ほとんどの短編に登場するにもかかわらず、リュートフの存在感は非常に稀薄。自らを語ることは少なく、心理描写も極力抑えられており、まるでマイクやカメラのようです。
 そうかといって、事実を客観的に伝えようという意図は全くみえません。実在の人物は数多く登場しますが、虚構の方へ大きく傾いているようにみえます(この点は、ブジョンヌィ将軍にも批判されている)。
 結局のところ、バーベリは、戦争に翻弄される人々を描こうとしたのではなく、様々なキャラクターという隠れ蓑にくるまって、自分自身との対話を繰り返したのではないでしょうか。
 その後、『私の鳩小屋の話』など自伝的な短編(『オデッサ物語』に収録されている)へとつながってゆくのも、納得できる気がします。

 余談ですが、ドリス・レッシングに「イサーク・バーベリ讃歌」という短編(初めて訳されたときは「アイザック・バベルに敬意をこめて」というタイトルにされてしまった)があり、『騎兵隊』の、主に「血祭り(Мой первый гусь 私の最初の鵞鳥)」について言及されています。
 これが収められている『Sudden Fiction 2 超短編小説・世界篇』には『私の鳩小屋の話』の一編「ディ・グラッソ」も入っていますので、興味がおありの方は、まずはこちらを読まれてもよいかも知れません。

追記:二〇二二年一月、松籟社から新訳が刊行されました。

『騎兵隊』木村彰一訳、中公文庫、一九七五

戦争文学
→『黄色い鼠井上ひさし
→『』ワンダ・ワシレフスカヤ
→『イーダの長い夜』エルサ・モランテ
→『第七の十字架』アンナ・ゼーガース
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング
→『三等水兵マルチン』タフレール
→『ムーンタイガー』ペネロピ・ライヴリー
→『より大きな希望』イルゼ・アイヒンガー
→『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス
→『虚構の楽園』ズオン・トゥー・フォン
→『アリスのような町』ネヴィル・シュート
→『屠殺屋入門ボリス・ヴィアン
→『審判』バリー・コリンズ
→『裸者と死者ノーマン・メイラー

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