読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット

Friedrich Dürrenmatt

 フリードリヒ・デュレンマットは、マックス・フリッシュとともにスイスを代表する劇作家・作家として知られています。
 特にデュレンマットは推理小説も書くので、そちらのファンも多いと思います。

 本国では『判事と死刑執行人』がベストセラーになったそうですが、日本で知られているのはショーン・ペン監督、ジャック・ニコルソン主演の映画『プレッジ』の原作である『約束』Das Versprechen(1958)の方かも知れません。
 実はこの小説、書かれた経緯がちょっと変わっています。元々デュレンマットはラディスラオ・バホダ監督の映画『Es geschah am hellichten Tag』(1958)のシナリオを書いたのですが、結末に納得がゆかず、新たに小説として書き換えたのです。
 で、ペンは書き換えられた方を原作に映画を撮ったというわけ。

 映画はどちらもみていませんが、小説は書き直しの甲斐なく「結末に難あり」といわざるを得ません。
 いや、そう書くと駄作みたいですが、正確には「取ってつけたような犯人」さえ出さなければ完璧だと思います。個人的には、それくらい評価が高い作品です。
 ただし、残り二章は蛇足以外の何ものでもない。ミステリーファンは釈然としないかも知れませんけど、デュレンマットの不条理な戯曲や短編のファンからすると、あれは本当に必要ない。
 テンポよく短時間で読める点も評価できる(例えば、キャロル・オコンネルの『クリスマスに少女は還る』は面白いが、無駄が多すぎる)だけに残念でなりません。

 さて、デュレンマットの戯曲ですが、日本では全三巻の戯曲集が刊行されています。分厚く高価なので、どんなものか試しに読んでみたいという方には『物理学者たち』(写真)をお勧めします。
 こちらには代表作というべき三編の戯曲が収められており、肩慣らしにちょうどよい分量です。

ミシシッピー氏の結婚 −喜劇」Die Ehe des Herrn Mississippi(1952)
 検事であるミシシッピー氏の妻と、アナスタージアの夫が不倫し、ふたりはそれぞれの伴侶に毒殺されます。その後、ミシシッピー氏とアナスタージアは罪を償うため結婚をします。
 そこに、医師のユーベローエ伯爵、コミュニストのサン=クロード、総理大臣ディエーゴなどがからみ……。

 デュレンマットが初めて書いた現代劇で、後に映画化もされています。
 サン=クロードの処刑のシーンで始まり、五年前へと遡り、再び処刑へと戻るというユニークな構成です。また、芝居は途中で幕が下りますが、場面が転換されるわけでも休憩に入るわけでもなく、幕の前でアナスタージアを巡る男たちによるモノローグが行なわれます。

 男たちはそれぞれ理念を持つ存在として描かれます(モーゼの律法、共産主義キリスト教など)。一方、ヒロインのアナスタージアは、ひたすら貪欲に生に執着します。真実の愛を求める男たちに対して、アナスタージアは相手によって答えを変える典型的な娼婦です。
 ただし、デュレンマットは、どちらが正解かなんてことには頓着しません。その証拠に、ミシシッピー氏もサン=クロードもアナスタージアも、等しく殺されてしまいます。

 さらに面白いのは、死んだ者が最後に生き返るところ。生者と死者が混じり合い、混沌とした状況が生まれます。
 そういわれてみれば、部屋の調度品は様々な様式が混ざっていますし、アナスタージアとユーベローエの前に現れる三人の聖職者はカトリックプロテスタントユダヤ教とバラバラです。
 要するに、権威を振りかざしたり、地位に執着したりしたところで、あらゆるものは大した違いがないことを表しているのでしょう。ドン・キホーテをテーマにしたラストの歌が高らかなあざ笑いに聞こえます。

 この戯曲は『デュレンマット戯曲集』第一巻でも読めます。

天使バビロンに来たる −三幕の断片的喜劇」Ein Engel kommt nach Babylon(1953)
 古代バビロニアの都バビロンに、乞食の格好をした天使が少女クルービを連れて現れます。最も取るに足りない人物である乞食にクルービを渡すよう神にいわれてきたのです。
 ネブカドネザル王が変装したアナシャマシュタクラクは、バビロン唯一の乞食アッキと勝負をして負けますが、前王ニムロデと引き換えにクルービを手放してしまいます。
 その後、クルービはネブカドネザルの元に連れてゆかれますが、彼女が愛したのは王ではなく、乞食姿のネブカドネザルでした。

 ネブカドネザルは権力にしがみつき、悪政を敷く典型的な暴君です。本人はごく真面目ですが、デュレンマットにかかると喜劇的な人物にならざるを得ません。
 乞食のアッキと真剣に勝負をしたり、ニムロデと王の座を争ったり、進学者と論争したりしますが、いずれも思い通りにはゆきません。さらに、愛するクルービも簡単に失ってしまうのです。

 権力者を諷刺しているとも読めますが、「ミシシッピー氏の結婚」同様、対照的な存在であるアッキの肩を持つわけでもなく、どいつもこいつも収まるべきところに収まらないのが面白い。
 バベルの塔の建設を指示するところで幕が引かれるのは、続きを書く予定があったからだそうです。

 この戯曲は『デュレンマット戯曲集』第一巻でも読めます。

物理学者たち −二幕の喜劇」Die Physiker. Eine Komödie in 2 Akten(1962)
 私立のサナトリウム「レ・スリジエ」では三か月の間に、女性の看護師がふたりも殺害されています。犯人は、自分をニュートンと思い込んでいる男と、アインシュタインと思い込んでいる男です。
 もうひとりの物理学者メービウスは一見まともですが、彼にはソロモン王の姿がみえます。そして、彼も愛する看護師を絞殺してしまいます。

 精神病院が舞台の芝居というと、ペーター・ヴァイスの『サド侯爵の演出のもとにシャラントン保護施設の演劇グループによって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』、カリンティ・フリジェシュの「亀、もしくは居酒屋の中の気ちがい」、シャーロット・ジョーンズの『エアスイミング』などがすぐ思いつきます。
 フィクションでの精神科病棟は様々な意味で閉ざされた空間なので、三一致の法則を守りやすいということもあるのかも知れません。「物理学者たち」もそのせいか三編のなかでは最もまとまっています。

 ネタバレになるので詳しくは書きませんが、結局、三人とも狂ってはおらず、特にメービウスの研究は国家防衛の鍵を握っています。
 しかし彼は、それが人類の滅亡につながると考え、科学者としての成功や家族を捨て、自ら精神病院に入ったのです。現代において、天才は一般の人々から隔離されなければならないとメービウスはいいます。
 恐らくメービウスのモデルは、水爆開発に反対した物理学者ロバート・オッペンハイマーなのでしょう。

「物理学者たち」はその後さらに一捻りあり、「狂っているのは果たして誰か」という、よくある結末を迎えます。
 それも含めて観客は理解しやすく、だからこそ代表作と呼ばれるのかも知れませんね。

 この戯曲は『デュレンマット戯曲集』第二巻でも読めます。

『果てしなき旅路』スイス文学叢書5、小島康男訳、早稲田大学出版部、一九八四