読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『トンネル』エルネスト・サバト

El túnel(1948)Ernesto Sabato

 ふと気づくと、昨年、一昨年とアルゼンチン文学を一冊も扱っていませんでした。重要な作家を数多く輩出している国の文学に、二年以上も触れなかったことに自分でも驚いています(感想を書いていないだけで読んではいるけど)。
 余りご無沙汰すると「こいつはアルゼンチン文学が嫌いなのか」と思われてしまいますので、エルネスト・サバトを取り上げようと思います。

 物理学者から作家に転身したサバトは、エッセイは数多く遺しているものの、小説は生涯で三作しか書きませんでした。
 処女作の『トンネル』から十三年後に『英雄たちと墓』(1961)を出版し、さらにその十三年後に『Abaddón el exterminador』(1974)を刊行しています(※1)。
『燃える平原』と『ペドロ・パラモ』の二作しか書かなかったフアン・ルルフォと似ていますが、残念なのは三作目の『Abaddón el exterminador』の邦訳がないこと。これには『英雄たちと墓』の登場人物やサバト自身も出てくるそうなので、ぜひ読んでみたいのですが……。

 二作しか翻訳されていないのを幸いと考え、今回と次回の二回に分けて、両方の感想を書いてしまいます。
 まずは処女作の『トンネル』(写真)から。

『トンネル』は、国書刊行会ラテンアメリカ文学叢書の一冊です。このシリーズは、筒函入りで、パラフィン紙掛け。見返しには各巻異なるドローイングが描かれるという凝った仕様です。
 復刊された本も多いのですが、どういうわけか『トンネル』は絶版のままです。

 フアン・パブロ・カステルという画家が、マリア・イリバルネ・ハンテルという女性を殺害し、それを手記としてしたためます。彼は、自分を理解してくれる唯一の女性を、なぜ殺害してしまったのでしょうか。
 展覧会において、カステルの絵の左上に小さく描かれた小窓からみえる風景だけを凝視していたマリア。それが気になったカステルは、マリアを追い求めます。しかし、マリアは、大きなビルで姿を消したり、家を訪ねてゆくと盲目の夫がいたり、プレイボーイの従兄のいるエスタンシア(大牧場)にいってしまったり、その癖、カステルを慕っていることを仄めかすなど謎めいた言動を繰り返します。
 やがて、精神を病んだカステルは、エスタンシアに乗り込むとマリアをめった刺しにします。

「わたしは、マリア・イリバルネを殺した絵描き、フアン・パブロ・カステルという者だと言うにとどめておこう」というインパクトのある文章から始まるため、一見、倒叙推理小説や犯罪小説と思われるかも知れません。
 けれど、エンターテインメント小説とは明らかに様相が異なることはすぐに分かります。

 カステルが、マリアを展覧会で見掛けてから、その姿を追い求める様は、愛情を通り越して偏執狂に近い。ここまで細かく執拗に心の動きを描写されると、まともな人は引いてしまうのではないでしょうか。
 実際、この殺人事件は、カステルの粘着質が原因といえます。アルベール・カミュの『異邦人』のムルソーや、ペーター・ハントケの『不安 ペナルティキックを受けるゴールキーパーの……』のヨーゼフ・ブロッホのように不条理な殺人とは異なる、いわばまともな精神病といった感じです。

 訳者の高見英一は、翻訳作業をしている間、「こちらの鬱病的症状が悪化した」と書いています。一般的にも、実存主義に影響された重いテーマの文学で、カステルの異様な心理が読みどころのひとつであるとされています。
 ところが、少なくともラスト二十頁くらいまでは、陰鬱な気分に陥る要素は強くないように思います。執着心はあるものの、閉塞感はそれほど感じないのです。
 実際、作中で「感情的な表現はもうやめよう。この話はざっくばらんに書くといった以上、そのようにしよう」と書かれていたりします。つまり、ラストシーン以外は、比較的明るい雰囲気のまま進行するので、途中で読むのが嫌になることはありません。

 さらに、カミュやサミュエル・ベケットのような難解さとも無縁です。
 寧ろエッセイを読んでいるかの如く軽妙な部分(郵便局でのやり取りなど)もあり、それが非常にユニークであると感じました。
 前述したようにサバトは小説よりもエッセイを数多く書いた作家です。テーマも、科学、政治、文学、哲学、タンゴなど多岐に亘るそうです。
 そのため、カステルの脱線気味で饒舌な語りは、適度な薀蓄、独自の視点といった随筆における才能の表れという気がします。

 実をいうと、普通でないのは、カステルより寧ろマリアの方ではないかと思います。
 彼女が何を考えて動いているのか、カステルにも読者にもさっぱり分かりません。夫の存在を隠していたこと、その夫が盲人であること、女中にセニョリータ(お嬢さま)と呼ばせていること、約束を平気ですっぽかすこと、若くみえるが年齢が定かでないこと、かつての恋人が自殺をしたことなどなど……。

 要するにマリアは、典型的なファムファタールなのです。マノン・レスコーに魅せられたシュヴァリエ・デ・グリューのように、カステルも破滅への道を突き進みます。
 タイトルの『トンネル』とはカステルの暗く侘しい人生を表し、それに対してマリアは境界のない広い世界に住んでいます。
 そして、カステルの絵にあった小窓は、そのふたつの世界をつなぐ……、いえ、暗いトンネルのなかから眩しい世界を眺めるためだけのものだったのです。

 それをもって「自分を唯一理解してくれた人」と思わざるを得なかったカステルの心情を思うと、遣る瀬ない気持ちになります。
 本来、出会ってはいけない女に翻弄され、さらなる孤独に苛まれるようになった哀れな男といってしまえばそれまでなのですが、他人と理解し合うことの難しさが悲劇を招くケースは現実にも数多く存在します。
 どのような結末に至ろうとも、これが愛の物語のひとつであることは間違いありません(※2)。

※1:同じく長編を三作しか書いていないウィリアム・H・ギャスに『The Tunnel』という作品があるのが面白い。なお、フリードリヒ・デュレンマットの短編「トンネル」(Der Tunnel)は、トンネルに入った列車がスピードを上げ、地球の中心部に落ちてゆく話である。

※2:『英雄たちと墓』では、登場人物のひとりによって、カステル事件の真相が語られる。つまり、三作はすべてつながっている。


『トンネル』ラテンアメリカ文学叢書6、高見英一訳、国書刊行会、一九七七

→『英雄たちと墓エルネスト・サバト

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