読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『英雄たちと墓』エルネスト・サバト

Sobre héroes y tumbas(1961)Ernesto Sabato

 エルネスト・サバトの『英雄たちと墓』(写真)は、世界の目がラテンアメリカ文学に注がれるきっかけとなったといわれるほど重要な作品です。
 処女作の『トンネル』から十三年をおいて発表されただけあって、質・量ともに前作を凌駕しています。

『トンネル』は、ラブアフェアーと雑多なエッセイの組み合わせでしたが、『英雄たちと墓』ではアルゼンチンの歴史、政治、社会、文化(タンゴやサッカー)などについて、様々な角度から重層的に語られます(ホルヘ・ルイス・ボルヘスも登場する)。
 主に、現代(フアン・ペロン政権)、軍事クーデターが起こった一九三〇年代、そしてアルゼンチンがスペインから独立し、その後、連邦派と統一派に分かれて内戦を行なっていた時代について言及されるのが特徴です。

 一方で、『トンネル』とは様々な共通点があります。
推理小説のように冒頭に殺人事件が提示される」「謎の女性に翻弄される」「エッセイのように様々なテーマが論じられる」といった点がそれです。
 これだけ長い期間をおいて、テーマや技法が余り変わらないというのは凄いことです。勿論『トンネル』で満足できなかった点を『英雄たちと墓』でやり直したという見方もできますが、サバトにとって小説とは、あるひとつのことを表現するための手段だったのかも知れません。

『英雄たちと墓』には、自称小説家のブルーノという人物が登場します。彼は、一切作品を発表せず、生や死について考察してばかりしている中年男性です。
 サバトは、この人物に自身を投影しているといわれており、ブルーノは次作の『Abaddón el exterminador』(一九七四)でも重要な役割を果たすそうです。
 果たして、ブルーノは「書きたくても書けない」ことを表しているのか、それとも「書く必要がない」ことを訴えているのか。僕は、どうも後者のような気がして仕様がありません。
 もしかすると、小説は書かれない方がよいのかも知れない……。

 その辺のことは後述するとして、感想に移りたいと思います。

 没落した旧家の娘アレハンドラが、寝室として使用していたミラドール(小塔)に内側から鍵をかけ、拳銃で父親のフェルナンドを射殺し、その後、火を放って自殺したという新聞記事が冒頭に掲載されます。
 彼女は、なぜ父親を殺したのか。そして、拳銃には弾が二発残っていたにもかかわらず、どうして焼身自殺したのか。

 物語は、事件の二年前に遡ります。マルティンという青年とアレハンドラが出会い、マルティンは恋に落ちます。
 いつ会えるか分からないアレハンドラを求めて彷徨うマルティンというモチーフは、もしかするとフリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』にも影響を与えたかも知れません。彼らのやり取りは、それくらい息苦しいく切ない。
 特にこの小説は、アレハンドラが間もなく死ぬことが明らかにされているだけに、空しさも一入です。

 アレハンドラは、『トンネル』のマリアと同様、謎めいた女性です。
 あれこれ理由をつけて会ってくれない。約束の場所にこない。会ってもすぐ帰ってしまう。もう二度と会わないというなど、恋するマルティンにしてみたら、厄介極まりない相手です。
 前半は、アレハンドラに振り回され悶々とするマルティンの描写が続きますが、アレハンドラの奇妙な行動の原因が父親のフェルナンドにあるらしいことを突き止めてから、物語は俄然緊迫感を増してゆきます。

 しかし、ここで章が変わり、フェルナンドが死の直前まで書いていた「闇に関する報告書」が唐突に差し込まれます。
 読者は「ようやく殺人事件の真相が明らかになる」「娘との近親相姦に悩む父親の重く暗い手記に違いない」などと考えるはずです。ところが、そんな期待は簡単に裏切られます。

 なぜなら、この報告書がとにかく風変わりな代物だから。
 元々、独立した作品として書こうとしたらしく、本編とはトーンが異なります。また、サバト自身「『闇に関する報告書』の中で何が言いたかったのか、わたしには分らない」と述べており、そうなると読者はさらにわけが分かりません。

「闇に関する報告書」は、盲人に関するフェルナンドの手記です。
 彼は最初のうち、盲人をみつけ後をつけたりしていましたが、やがて事故を装って友人のイグレシアスを失明させます。そして、イグレシアスの下宿を見張ったり、大家と仲良くなったり、盲人の秘密結社が存在すると考え、それを探ります。やがて、盲人の秘密結社に命を狙われているという強迫観念に取り憑かれ、世界中を逃げ回るのです。
 彼の妄想は様々な事件を生み出しますが、なかでも『トンネル』のカステルが犯した殺人は、マリアの夫(盲人)が所属する秘密結社によって仕組まれたものという話には仰天させられます。

 その一方、自分を殺すことになるアレハンドラについては、一行たりとも語られません(彼女に関する謎や冒頭の事件については最後まで明らかにされないため、読者自身が解明する必要がある)。
 正に壮大な肩透かし。本筋と無関係の百頁以上もある狂人の報告書を、なぜ読まされなくちゃいけないのか、と首を捻りたくなります。

 とはいえ、この部分が詰まらないかというと決してそんなことはありません。フェルナンドの言動はハチャメチャですし、彼が語るいくつかの事件はそれこそ推理小説のように面白い。様々な魔物に変化するクライマックスも圧巻です。読了後は、この章こそ『英雄たちと墓』を魅力的にした最大の因子であることに気づくでしょう。
 いわばフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」みたいなもので、これがなければ、正直『トンネル』と大した違いはないのです。

 マルティンとアレハンドラ(あるいは、若き日のフェルナンド、ブルーノ、ヘオルヒーナ)の物語は、確かに切なく苦しいけれど、目新しさは感じません。
 作品を発表しないブルーノ、闇に取り憑かれ本筋から逸脱するフェルナンドのふたりがいたからこそ、『英雄たちと墓』は世界を驚かせる文学となり得たのです(『石蹴り遊び』がモレリの存在によって、複雑なメタフィクションになったのと同様)。

 話を最初に戻すと、小説は書かれる必要がないのかも知れない。そういうと詭弁に聞こえますが、少なくともサバトにとって小説は毎年一作ずつ発表してゆくようなものではなかったのでしょう。
 サバトの数多くのエッセイはほとんどがごく短いものだそうです。それ故、飽くまで余技とされています。実際、それらは生活のために書かれたのかも知れません。

 にもかかわらず、本務である小説は余りに数が少ない。
 これはもう、書かないことにこそ意味があるとしか思えないではありませんか。

 それこそが『英雄たちと墓』最大の謎ですが、残念ながら明確な答えを見出せません。
 サバトが傾倒し、やがて反発したボルヘスの「バベルの図書館」には、これから書かれる本も収められています。ブルーノの永遠に発表されることのない作品は、一体どこへゆくのか、考えると深みにはまってしまいます。少なくとも、バートルビー症候群という言葉を用いて、分かった気になるのだけは避けたい。
 だからこそ、ブルーノが再び登場する『Abaddón el exterminador』を読んでみたいのです。サバトの三作はすべてつながっており、合わせて「エルネスト・サバト」という作品であるとしたら、読まずに終えるのは本当に辛い……。
 ああ、どなたか翻訳してもらえないでしょうかね。

『英雄たちと墓』ラテンアメリカの文学7、安藤哲行訳、集英社、一九八三

→『トンネルエルネスト・サバト