Felicia's Journey(1994)William Trevor
前回同様、短編小説の名手とされる作家の「長編小説」を取り上げてみます。
ウィリアム・トレヴァーは、訳本の多くが短編集(日本オリジナル編集を含む)で、アンソロジーや雑誌にも数多くの作品が収録されています。
近年、短編小説といえば、この人の名前が真っ先にあがるのではないでしょうか。
トレヴァーはエンターテインメントの作家ではありませんが、かといって平凡な人生の一断面を切り取った、特筆すべきことが起こらない、あるいは何が起こっているか分からないような高尚な(?)文学ではなく、きちんとドラマが描かれます。
一方、同じアイルランドの作家であるジェイムズ・ジョイスほどではないものの、ある程度想像力を働かせないと真実がみえてこないといった特徴もあります。
また、人間の底意地の悪さ、おぞましさを強調した作品が多く、後味はよくないため、幸せな気分になったり、感動の涙を流したい人には向きません。
短編小説が得意だと、すぐにアントン・チェーホフと比較されたりしますが、短いこと以外共通点はないような気がします。
実際、トレヴァーはチェーホフと異なり長編小説も書いており、『フールズ・オブ・フォーチュン』や『フェリシアの旅』(写真)など映画化された作品もあります。
個人的には、長編の方が好きで、特に『フェリシアの旅』は傑作だと思うのですが、なぜか話題になることは少ないようです。
アイルランドに住むフェリシアは、父、双子の兄、曾祖母と一緒に暮らしています。失業し、器量もよくない彼女は、イギリスに住み、ときどき地元に帰ってくるジョニーにナンパされ、妊娠してしまいます。
「ジョニーはバーミンガムの芝刈り機工場で働いている」という情報だけで、家出をするフェリシアですが、ジョニーはなかなかみつかりません。
一方、バーミンガムの工場の食堂責任者であるヒルディッチは、巨漢の中年独身者。親が遺してくれた豪邸にひとりで暮らしています。食べることが大好きな彼は、今の仕事や生活に満足していますが、見知らぬ少女に声をかけるという隠れた愉しみを持っています。
そんなふたりが出会い……。
トレヴァーは長編においても、一見分かりやすい構図を用います。
簡単に男に騙される田舎娘フェリシアと、軽くて不誠実なナンパ男のジョニーは勿論のこと、脇を固めるキャラクターもステロタイプに陥ることを厭いません。
例えば、フェリシアの父は、北部六州(北アイルランドのこと。統一を望む者は「北アイルランド」という名称を使用するのを嫌がる)を奪った敵国イギリスを憎んでいます。彼の祖父は結婚わずか一か月でアイルランド独立戦争によって命を落としていますし、フェリシアという名はその戦争でバリケードを守って死んだ女性からとってしまうほどの愛国者です。
当然ながら、アイルランド人の癖に占領軍の一員となったジョニーを認めるはずがありません。
一方、ジョニーの母親は、旦那を女に奪われ、女手ひとつで息子を育ててきました。それ故、息子を溺愛しており、妊娠したフェリシアなど害虫としか考えていません。
自分と同じように不幸な女性を生み出すことになるとは思いもよらないのです。
これだけ取り上げても、人物造形や対立構造が明瞭であることが分かると思います。そのほか、フェリシアの兄たち、宗教団体の信者、ホームレスなど類型的な人物が多く登場します。
が、それに騙されると痛い目をみます(いや、飽くまで比喩で、別に痛くも痒くもないが……)。もうひとりの主人公はヒルディッチで、この物語において唯一彼だけは、常人には理解できない闇を抱えた人物として描かれるのです。
彼は、家出をした若い女性をみつけると既婚者を装い近づき、彼女たちの相談に乗ってあげます。話を聞くだけでなく、車で送ってあげたり食事をご馳走したりもします。
ヒルディッチの目的は性的な関係を持つことではなく、彼女たちのかけがえのない友になることです。
ところが、少女たちはヒルディッチの気持ちなど忖度せず、あっさりと彼の元を去ろうとします。それはヒルディッチにとって大いなる裏切りであり、そのたび、心が傷つけられます。
その結果、少女たちを「殺害してしまう(という妄想を抱いていた。あるいはフェリシアの勘違いかも知れない)」のです。
フェリシアこそは今までの女たちと違う。ヒルディッチはそう信じたかったのですが、彼女も当然ながら思い通りになってくれませんでした。
そして……。
見事なのは、フェリシアがそのことに気づく場面です。平常と変わらぬ淡々とした描写が、愚鈍なフェリシアの絶望を表現し、下手なホラー小説の何倍も恐ろしく仕上がっています。
また、「殺害」シーンが一切描かれない点も効果的です。トレヴァーは肝腎な場面を敢えて省略することが多く、以前取り上げた「電話ゲーム」など正にその典型です。しかし、長編小説で、なおかつ主人公にまで堂々とそれを適用してしまいます。
さらに、それらが読者を騙す仕掛けになっており、裏の裏をかかれたような心地よい敗北感に浸ることができます。
未熟な少女のロードナラティブが、いつの間にかサイコスリラーへと変化し、最後には元に戻ります。こうした構成は珍しいものの、それだけだとしたら大して評価されずに終わっていたかも知れません。
しかし、上述した技巧が明らかに尋常ではなく、数々の伏線(少女たちと一緒にいるところを人にみられるのをヒルディッチは恐れていたこと。前半はフェリシアとヒルディッチを交互に描いていたのに、後半のほとんどを妄想に取り憑かれたヒルディッチがフェリシアを探し求める様に費やした意味など)と合わせて、思わず「上手い」と唸ってしまいます。
結局、謎を残したまま終わるのですが、それは真実を見出す楽しみを提供しているというより「とどのつまりヒルディッチとは何者だったのか」「フェリシアの旅はどこへゆき着くのか」を読者にじっくりと考えさせようとする意図の表れではないでしょうか。
手垢のついた素材を用い、読者を虚構のなかへ容易く誘い、すっかり油断したところを見計らって孤独な中年男の底知れぬ闇と、少女の先のみえない未来を提示する……。
短編の名手の長編は、間延びした駄作ではなく、破壊力を増した危険な爆弾なのです。
『フェリシアの旅』皆川孝子訳、角川文庫、二〇〇〇
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