بوف کور(1937)صادق هدایت
オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の編纂でも知られるサーデグ・ヘダーヤトは、現代ペルシア文学における最も重要な作家です。
「文学イコール韻文」だったペルシアにおいて、散文を普及させた功績が讃えられています。
日本に置き換えると、モハンマドアリー・ジャマールザーデが坪内逍遥で、ヘダーヤトは二葉亭四迷に当たるでしょうか。ま、それくらいよく知られた作家といえます。
だからといって、文学だけで食っていけたわけではなく、ヘダーヤトは生まれ育ったテヘランで銀行や役所に勤め生計を立てていました。サラリーマンとしては出世を目指さず、下級の地位に甘んじていたそうです。そのせいか、仕事は長続きせず、職を転々としました。
やがて、ヘダーヤトは、逗留先のパリで自殺を図ります。
パリは、若き日に恋愛をして、自殺未遂まで起こした土地でした。
生涯独身だったこと、広い意味での恋愛小説が多いことから、ヘダーヤトは偉大な小説家ではなく、ひとりの男として死を選んだのかも知れません。
さて、ヘダーヤトの代表作といえば、ヒジュラ暦一三一五年に出版された中編「盲目の梟」です。様々な言語に訳され、高い評価を得ています。
『盲目の梟』(写真)はその「盲目の梟」を含んだ日本オリジナルの短編集です。ヘダーヤトに「暗い」「重い」というイメージを抱いている方もいるかも知れませんが、『ルバイヤート』の編纂者だけあって陽気な短編も書いています。また、決して難解ではないので、構えずに読んで欲しいと思います。
ただし、『盲目の梟』は現在やや入手しにくいため、気長に探されるとよいでしょう。
「変わった女」Lunatique(一九一〇)
インドで出会ったフェリシアという女性は、金持の取り巻きを従える一方、貧しい者に施しをしていました。この世に生を受けたものの、何ひとつ跡を残さず死んでゆく彼らを哀れに感じたためです。しかし、それは西洋的な考え方で、インドの人たちはカルマに耐え、別の体で生まれ変わることを信じていたのです。
インドの音楽を聞いて満足していた主人公は、フェリシアにそれを咎められ、インドのことを理解できない外国人女性と馬鹿にします。けれど、彼女を通してインドの真実を垣間みることになりました。描写に無駄がなく、構成も巧みで、お手本のような短編です。
「こわれた鏡」آینه شکسته(一九三二)
パリで知り合ったオデットという娘と、ささいなことで喧嘩をし、彼女の鏡を割ってしまいます。その後、ロンドンに渡った主人公は、オデットから手紙を受け取り、彼女が入水自殺するつもりであることを知ります。
小説としては通俗的で、捻りもありませんが、ヘダーヤトの経験が反映されているという意味では興味深い作品です。
「ラーレ」
二十年前に隠遁の道を選んだ六十歳のホダーダード。彼はわずかな土地を耕し、かつかつの生活をしていました。ところが最近、彼は市場に姿を現し、女ものの服などを買うようになりました。というのも、突然やってきた遊牧民の少女ラーレ(十二歳)と暮らすようになったからです。
ホダーダードの悲劇は、ラーレを娘としてではなく、恋人としてみてしまったことでした。そうなると、二度と人のいる世界には戻ってこられません。
「ハージー・モラード」حاجی مراد(一九三〇)
ハージーとはメッカ巡礼者のことですが、モラード自身は巡礼をしておらず、叔父から受け継いだ敬称です。妻とは喧嘩が絶えず、特に「偽ハージー」と罵られると、つい暴力に訴えてしまいます。ある日、彼が街を歩いていると、妻が許可なしで外出しており、思わず殴ってしまった後、別人であることが分かります。
ユーモラスな話ですが、イスラームにおける女性の人権について考えさせられます。
「サンピンゲ」Sampingué(一九一〇)
両親を亡くしたサンピンゲは、姉の嫁ぎ先に引き取られます。しかし、姉もまた儚くなり、天涯孤独となった彼女は、かつて母が話してくれた妖精の世界へ旅立ちます。
インドを舞台にした作品です。現実の世界を生きづらいと感じている少女には、どこで暮らしていても異邦人だったヘダーヤト自身が投影されているのでしょう。
「赦しを求めて」طلب آمرزش(一九三二)
巡礼の途中、ある夫人が恐るべき罪を告白します。子どもができなかった彼女は、一時妻の生んだ子をふたり殺し、さらにはその一時妻も殺害していたのです。ところが、それを聞いた巡礼者も、次々に殺人を打ち明け……。
何でも、巡礼しようと決心して出発した瞬間に罪は清められるんだとか。だとしたら、随分調子のよい話ですね。
「野良犬」سگ ولگرد(一九四二)
発情したせいで主人とはぐれ野良犬になったパート。彼を待っていたのは過酷な運命でした。
イスラム教で犬は不浄な生きものとされているため、人々に虐げられます。ゾロアスター教を研究していたヘダーヤトは、犬を神の使いとみなしていたのでしょう。
「三滴の血」سه قطره خون(一九三二)
精神病院に入院している「僕」は、三滴の血に取り憑かれているようです。登場する狂人たちは、すべて彼の別人格のようにも読めます。三滴の血とは、果たして何を表しているのでしょうか。
「ダーシュ・アーコル」
シーラーズの顔役ダーシュ・アコールは、友人の遺言執行人を任され、十四歳の娘マルジャーンに恋してしまいます。中年でやくざで醜男故、恋心を隠し、友人の家族のため私財を擲って尽くします。しかし、マルジャーンはダーシュ・アコールよりも醜く歳とった男と結婚することになりました。
「ラーレ」とよく似ています。ヘダーヤトは報われない恋を描いたものが多い。しかも、とことん残酷に……。
「盲目の梟」بوف کور(一九三六)
病に伏せる「私」は、死を恐れません。来世も信じず、とにかく己が消滅することを冀っています。一方で、女性に対する愛や憎しみが彼を支配しています。阿片の影響もあって、幻覚なのか夢なのか、過去なのか現在なのか、生きているのか死んでいるのか分からない女たちが次々に現れては消えてゆきます。夫の兄弟(双子)に騙されて体を許したことで失踪した母、慕っていた叔母、その娘で誘惑されて結婚したものの、とんでもない淫売だった妻……。
女神でもあり売女でもある女性への複雑な思いを、錯綜した時間と、夢と現の狭間で表現した傑作です。特に、赤子の頃からともに育ちながら、結婚後、ラカーテ(淫売女)と呼ばざるを得なくなった妻に対する強烈な感情は、ほかの文学作品では読んだことのない唯一無二の体験でした。
作者と作品は分けて考えるべきではあるものの、ヘダーヤトが自死を選んだことで「盲目の梟」は完璧になったといえます。
『盲目の梟』中村公則訳、白水社、一九八三