読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『太った女、やせた女』メアリー・ゲイツキル

Two Girls, Fat and Thin(1991)Mary Gaitskill

 メアリー・ゲイツキルは少女の頃、「将来は娼婦になる」と宣言して両親を驚かせた(※1)とか。その後、娼婦ではなくストリッパーになり、それ以外にも麻薬の売買、暴力事件、高校退学、家出、精神病院に入院などを経験したそうです。
 彼女の場合、そのまま反社会的な道に進むのではなく、ストリップで稼いだ金でミシガン大学に入ると、小説の執筆に目覚め、大学の文学賞を受賞したところが凄い。
 尤も、十歳代のときに文学に目覚めたとはいえ、すぐに商業デビューしたわけではなく、処女短編集『悪いこと』が刊行されたのは三十四歳のときでした。

 経歴をみて分かるとおり、ゲイツキルはセクシャリティやセックスを堂々と扱うタイプの作家です。
 こうした作風の場合、長い期間、安定して翻訳されるケースは余り多くありません。嫌悪感を抱かれるせいか、飽きられてしまうのか……。
 例えば、オーストリアの作家エルフリーデ・イェリネクノーベル文学賞を受賞した際は「ポルノグラフィ」という批判が多くありました。そのせいか、日本では大手の出版社から訳本は出ず、ほとんど話題になりませんでした。

 いや、セックス云々よりも、女流作家が現代の女性の生き方を描いた小説、もっというとフェミニズム文学は、男性読者に敬遠され、そのせいで部数が伸びないのではないでしょうか。
 ロマンス小説ならともかく、ただでさえ読者の少ない主流文学の翻訳で、女性しか読まないとなると商業的には相当厳しそうです。
 キャシー・アッカーのブームも長続きしませんでしたし、『飛ぶのが怖い』のエリカ・ジョングでさえ約二十年も邦訳が途絶えています。
 最近ではチママンダ・ンゴズィ・アディーチェやレティシア・コロンバニが人気ですが、十年後も邦訳が続いているかどうかは分かりません。

 ゲイツキルは、『悪いこと』(※2)と、第一長編『太った女、やせた女』(写真)が早川書房から刊行されましたが、その後はパタリと止まってしまいました。日本での評価は高かっただけに非常に残念です。
 彼女の小説の登場人物は、確かに特殊な性癖を持つ者が多いのですが、だからこそ愛やセックス、アイデンティティについて、より真剣に悩む様子が窺えます。性的な問題が前面に出てくるものの、過激でぶっ飛んだ作風ではないし、ガートルード・スタインのように特徴的な文体でもありません。

 例えば、短編はスタイルといい破綻のなさといい、お手本のように綺麗にまとまっています。いわゆる人生の断面を切り取り、主人公の現在の立ち位置や苦悩を鮮やかに浮き上がらせるといったタイプなので、大人の読者も安心して楽しめます。
 ある程度の年齢になると、切り捨ててきた過去が無性に気になるものです。そういう意味で「ある関係を編集すれば」や「繋り」といった短編には胸を締めつけられます。

 一方、老年の男性が孫のような年齢の売春婦に幻想を抱き、あっさりと夢が破れるさまを淡々と描写した「素敵な出来事」、子育てを終えた夫婦が家族の波乱に富んだ歴史を振り返る「天国」といった短編も味わいが深い。
 人生経験の豊富な人物の描写も見事ですから、作者名を隠したら若い女性が書いたものとは思われないでしょう。

 さて、ゲイツキルが短編集を上梓した後、満を持して取り組んだ長編が『太った女、やせた女』です。
 そのボリュームをみれば彼女が表現したいことが何となく分かります。前述したとおり、人生におけるある一瞬を切り取るタイプの短編を得意としていたゲイツキルは、長い分量を費やして、ふたりの女性の半生をじっくりと描きたかったのではないでしょうか。

 深夜の校正という仕事をしている三十四歳のドロシー・フッティー(太った女)と、二十八歳の売れないジャーナリストのジャスティーン・シェイド(やせた女)は、既に故人である架空の作家アンナ・グラナット(※3)をきっかけに知り合いになります。グラナットの記事を書こうとしたジャスティーンが「グラナットの信奉者にインタビュー希望」という貼り紙をし、それを偶然みつけたドロシーが連絡をしたのです。
 これが第一部で、グラナットの生涯や思想、彼女の著作に影響を受けた定理主義者といわれる人々の活動などを、ドロシーがジャスティーンにレクチャーする形で進みます。

 この辺りは、謎の女流詩人を探すふたりの若き詩人を描いたロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』といった感じです(『太った女、やせた女』の方が先に書かれている)。
 ふたりの女を結びつけたグラナットが今後どうかかわってくるのか、ドロシーとジャスティーンの関係がどう展開するのか、といった興味は一旦棚上げにされます。

 というのも、第二部ではドロシーとジャスティーンの生い立ちが交互に語られるからです。
 決して裕福といえない家庭で育ち、引っ越しを繰り返したため学校でもなかなか友だちができず、地下室でテレビばかりみていたドロシーは次第に肥満してゆきます。そして、父親に精神的・身体的虐待を受け、ついには性的関係を強要されるようになります。そのなかで、グラナットの小説に出合い救われます。
 一方、ジャスティーンは美形の両親(父親は医師)に育てられます。学校ではイケてる少女たちのグループに属し、冴えない子のイジメに加担したりします。しかし、転校した学校で半ば強引に処女を奪われ、それをきっかけに親友に裏切られ、孤立してしまいます。

 第三部では、再び現在に戻ります。
 ジャスティーンがグラナットに関する批判的な記事を書いたことに腹を立てたドロシーは、抗議のため、彼女のアパートに向かいます。そこには、バーで知り合った男とSMプレイをして傷ついているジャスティーンがいました。

『太った女、やせた女』では、ドロシーのパートは一人称で、ジャスティーンのパートは三人称、ふたりが同時に登場する場面ではドロシーの一人称が用いられます。つまり、どちらかというとドロシーの方が主でなわけですが、だからといって「ドロシーこそ作者の分身」といった単純な話ではありません(ジャスティーンは、ゲイツキルの短編の主人公たちとよく似たタイプなので、寧ろこちらの方が作者に近いだろう)。
 そもそも、主人公をひとりでなく、ふたりにした理由な那辺にあるのでしょうか。

 一見、ドロシーとジャスティーンの生き方、境遇、容姿、性格は正反対にみえます。片や性的虐待の傷を負い、醜く太り、仕事にも恋愛にも恵まれない孤独な女。片やジャーナリストとしての将来に希望を抱き、刺激的なセックスを楽しむ美女。
 ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」が引用されるため、イジメの被害者と加害者が大人になって出会ったらどうなるのかを描いたとも考えられますが、それほど単純な話ではないと思います。

 よく読むと、ふたりは対照的であるのと同じくらい共通点が多いことに気づきます。「父親が権力を握っている家庭で、ひとりっ子として育つ」「頻繁に引っ越ししたため、何度も転校を繰り返す」「性的虐待を受けたことがある」「精神科に通っていた」「学校で孤立していた」などなど。
 特に、ふたりの幼少期から学校時代を描いた二部は、家庭でも学校でも次第に浮き始め、居場所がなくなってゆく様がそっくりで、同じものを二度読まされているような錯覚に陥りそうになります。

 似た経験をしてきたにもかかわらず、わざわざふたりの女性の人生を並行させた謎を解く鍵は、グラナットの定理主義を説明した以下の文章にありそうです。
「定理主義の思想によれば、人間であれ素材であれ、あらゆる不完全な個体には、それに向かい合う完全な相方が存在するのである。つまりどの垢ぬけない売り子にも麗しい王女がいるのである。ここでいう完全は売り子の全否定を意味するのでなく、彼女が志向すべき理想を意味しているのである」

 いわゆる「名コンビ」は、エンターテインメント系のフィクションであれば、よくみかけます(体力に自信のある熱血漢と、冷静沈着な頭脳派がコンビを組んで事件を解決する刑事ものなど)。
 また、恋愛小説には、相性も価値観も最高で、ほかに代わりのいない「運命の人」が現れたりします。
 けれど、リアリズムの文学でそれをやると嘘臭くなります。下手をしたら宗教や自己啓発団体の領域になってしまいます。

 だからこそゲイツキルは、グラナットと定理主義という胡散臭い仕掛けを用意したのでしょう。
 定理主義の思想がインチキだということは、懐疑的なジャスティーンを通じて読者にも伝わりますし、そもそもドロシーとジャスティーンは互いに補完し合う関係として描かれていません。

 それでも、グラナットを信奉しているドロシーは、自分を完全体にしてくれる存在を求めています。物語のラストで、ジャスティーンを許し抱き締めたのは、理想的な美人と思っていたジャスティーンが、自分と同じように誰かを探し続けていることに気づいたからでしょう。
 グラナットを批判し、ドロシーを無様な女と馬鹿にしていたジャスティーンも、本当の友だちがいないことを告白し、ドロシーに安らぎを感じます。

『太った女、やせた女』という書名は、ぞんざいな印象を齎します。登場人物に感情移入しやすくするなら、例えば『ドロシーとジャスティーン』などというタイトルを選択するのではないでしょうか。
 それをしなかった理由は、彼女たちは単に類型に過ぎないからであると思います。
 つまり、この小説は、世のなかに数多存在する、片割れを探す女性を描いたものなのです(※4)。

「自立」と「孤独」の狭間で苦しむ女性、いや、老若男女を問わずほとんどの人が、今の状況から自分を救い出してくれる誰かを求めているのではないでしょうか。
 僕自身、「自分を理解し、助けてくれる優れた人物がいてくれたらいいなあ」とぼんやり考えたことがありました。
 勿論、そんな調子のよい人など現れるはずはなく、さらに落ち込むことになるわけですが、そんなときはフィクションで一瞬の夢をみるのもよいでしょう。ドロシーがゲイツキルの小説に救われたように、『太った女、やせた女』に癒やされる人はきっといるはずです。

 実は、この本が出版されてから三十年が経っています。インターネットやSNSの有無という違いはあるものの、悩みの質は基本的に変わっていないような気がします(どちらがより孤独を感じるかは人やケースによると思う)。
 そういう意味でも、ぜひ読んでもらいたい作品です。

※1:短編「あがき」には「女たちは美しくて、何もせずにクッションに座っていれば、男たちに愛される」と考えたとある。

※2:なお、短編集『悪いこと』は書名であり、同名の短編は存在しません。映画『セクレタリー』の原作となったのは、そのなかの「秘書」という短編です。

※3:アンナ・グラナットのモデルは、ロシア系アメリカ人の作家アイン・ランドである。定理主義(Definitism)は、ランドの客観主義(Objectivism)をもじっている。ランドの小説は文学関係者には酷評されたが、その思想によってカルトの教主のような存在になっていた。

※4:かつて『ミスター・グッドバーを探して』という実際の事件を元にした作品があったが、それと似た面があるかも知れない。


『太った女、やせた女』酒井洋子訳、早川書房、一九九三