読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『地下組織ナーダ』ジャン=パトリック・マンシェット

Nada(1972)Jean-Patrick Manchette

 以前も書きましたが、暗黒小説(ノワール小説)とは、アメリカの犯罪小説(ホレス・マッコイやジェイムズ・M・ケインなど)の翻訳をきっかけに生まれたフランスの犯罪小説を指します。
 広義では、フランス以外の国の犯罪小説を指すこともあるようです(ジェイムズ・エルロイジム・トンプスンなど)。しかし、余り広げすぎると、第二次世界大戦以前のものやハードボイルド小説やクライムノベルまで含まれてしまい収拾がつかなくなります。
 そのため、今回はフランスに絞って話を進めます。

 ノワール小説の代表的な作家として、ジャン・アミラ、ジャン=パトリック・マンシェット、A・D・G、ディディエ・デナンクスらがあげられます。あるいは、ジョゼ・ジョヴァンニ、ジャン・ヴォートラン、フランシス・リック、ヴァーノン・サリヴァンボリス・ヴィアン)なども含まれるかも知れません。
 彼らの作品は日本において人気が出るところまではゆかず、ひとり二、三冊ずつ邦訳され、いつの間にか忘れられてしまったという感じです。

 そんななか、マンシェットは死後に少しだけ話題になり、トータルで六つの長編が訳されました。五十二歳の若さで亡くなったマンシェットは、共著を含め十一作しか著作がないため、半分くらいは紹介されたことになります。
 パトリシア・ハイスミスのように「突如、邦訳が進み、ついには全長編が訳された」なんて例もあるので、気長に待つとしましょう。

 とはいえ、マンシェットといえば一九七〇年代にハヤカワ・ポケット・ミステリから刊行された岡村孝一訳の『狼が来た、城へ逃げろ』と『地下組織ナーダ』(写真)のイメージが強いのも確かです。
 岡村訳には独特の雰囲気があり、ファンが多いといわれています。ただし、『狼が来た、城へ逃げろ』を『愚者が出てくる、城寨が見える』(※)として新訳した中条省平によると「岡村訳のべらんめえの名調子によって、登場人物の極端な奇人ぶりばかりが目立ってしまい、人間存在の脆弱さという主題や、緻密きわまる小説の構成、そして、繊細かつスピーディでありながら、ときとして病的なまでに偏執的にたたみかけるマンシェットの文体の魅力が見えなくなってしまいました」とのことです。

 確かに『眠りなき狙撃者』のように冷酷な殺し屋が主人公の小説であれば、ハードボイルドやノワールの冷たく渇いた文体が合っているかも知れません。
 しかし、『狼が来た、城へ逃げろ』は、精神病院にいた女性ジュリーが主人公です。ジュリーは、少年ともども四人組の殺し屋に誘拐されるものの、逆に仲間のひとりを殺して逃亡し、逃げるのを助けてくれた男まで殺してしまうといったエキセントリックな女なので、岡村訳の姉御口調がしっくりくるような気がします。
 また、出番の多いギャングスターたちのわちゃわちゃした感じも悪くありません。これは「ナーダ」のメンバーたちとも近いイメージです。
 ちなみに『殺戮の天使』の主人公エメも女性ですが、こちらは邦題どおりの殺戮マシンですから、とことんクールに訳すのが正解でしょう。

 さて、『地下組織ナーダ』のあらすじは以下のとおりです。

 左翼グループ「ナーダ」(ポルトガル語で「何もない」という意味)は、駐仏アメリカ大使を誘拐する計画を立てています。首謀者のブエナベントゥーラは、アルジェリア戦争で知り合ったエポラールを仲間に誘いました。エポラールは、かつて政治活動に力を注ぎ、現在は殺し屋をしています。
 直前に脱落したメンバーもいましたが、予定どおり実行し、大使の誘拐に成功します。しかし、別のグループの者が犯行を撮影しており、警察はそれを元に犯人グループを割り出します。
 そして、彼らのアジトを取り囲みますが……。

 五月革命で左翼活動家だったマンシェットの経験や思想が生かされた設定です。とはいえ、飽くまでエンターテインメントとして書かれているので、登場人物のイデオロギーを理解する必要はありません。
 実際、ナーダの主張は幼稚ですし、具体的な犯行声明もない。読者は、アナーキスト、学生、労働者、反スターリン主義者、毛沢東主義者などがごちゃまぜになって過激な闘争を行なっていた時代の雰囲気を感じ取ればよいのだと思います。

 現代の人が読むと、美女を含む少人数のグループ、ゴエモンという名の警部が登場することから『ルパン三世』を連想するかも知れません。
 強ちそれも間違いではなく、特に娼館から大使を誘拐する場面や、ブエナベントゥーラとゴエモンの一騎打ちのシーンは、とてもスリリングです。

 マンシェットの作品は、極限まで贅肉を削ぎ落とした文体、冷たく客観的な描写、狂気と暴力が充満しつつ洗練された雰囲気、スピーディな展開、練りに練った構成などが特徴といわれます。
 勿論、それらはすべて正しいのですが、個人的には「人の死をいかに軽々しく扱うか」にポイントがあるような気がするのです。

 マンシェットの小説においては、主役クラス、脇役の区別なく、とにかく人が死にまくります。登場人物に殺し屋が多く、心理描写がほとんどないため、食事のシーンを読むくらいの感覚で殺しが行なわれます。
 例えば『地下組織ナーダ』では冒頭に、警官が母親に宛てた引用されます。そこでアナーキストたちをやっつけたことが、カマンベールチーズを送ってくれと頼むのと同じくらいの気軽さで扱われます。さらにこの手紙によって、ナーダのメンバーが殺されることが最初から分かってしまうわけです。
 こうした命の軽視を、作品の軽さや浅さと考えてしまう人もいるかも知れません。

 けれど、マンシェットは、単に刺激が目的で死体を量産しているわけではありません。
 どれだけ思いを込めようが、人は死ぬときは死にます。現実においても虚構においても、それは同じです。
「革命だ」「自由だ」と叫んでも、人は虫と同じようにちっぽけな存在に過ぎないわけです。それを圧縮した物語のなかで繰り返し描くことで、人間とはいかに脆く儚い存在であるかを表現しているのではないでしょうか。

 残念なのは、マンシェット自身もそれを体現するかのように早世してしまったことです。生き急ぐのは作中人物だけでよかったのですけれど……。

※:原題は『O dingos, O chateaux!』だが、この「Dingo」を「狼」と訳すのは間違いで、俗語で「頭のいかれた奴」を表すとのこと。ちなみに英語では『The Mad and the Bad』や『Run Like Crazy, Run Like Hell』と訳されている。

『地下組織ナーダ』岡村孝一訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、一九七五

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