読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『完全版ピーナッツ全集』チャールズ・M・シュルツ

The Complete Peanuts(2004-2016)Charles M. Schulz

 二〇二〇年十一月の配本で、チャールズ・M・シュルツの『完全版ピーナッツ全集』全二十五巻+別巻が完結しました。
 このブログでは絶版や非売品など普通の書店で入手できない本の感想を書いており、本来であれば『完全版ピーナッツ全集』はそれに当てはまりません。しかし、この全集には全巻予約特典として非売品の別巻(写真)が存在し、そのおかげでギリギリ範疇に収めることができます。

『完全版ピーナッツ全集』は、最初の十巻の予約でポスター三枚、全巻予約で別巻がもらえました。
 新聞連載以外のピーナッツの一部が収録されている別巻は、単なるおまけではなく、質量ともに充実しています。それもそのはず、海外では26巻として販売されているものなのです。それを特典にしてくれたことには感謝しますが、後から集め始める人は新品を入手できないのが気の毒です。
 さすがに月報は挟み込まれていませんが、書店に並ばないのに帯つきで、さらに栞まで入っているのが嬉しいです。

 さて、五十歳以降の人が「ピーナッツ」の思い出について語るとき、必ずといってよいほど登場するのが、ツル・コミック社(鶴書房)の「PEANUTS BOOKS」です(※1)。
 かくいう僕も、あのシリーズを夢中で読んだ口です。

 とはいえ、小学校中学年頃の話なので行動範囲も知識も狭く、自力では「PEANUTS BOOKS」を手に入れられませんでした(近所の本屋には置いてなかった)。どうしたかというと、母に連れられ新宿の祖父母の家に遊びにいくとき、少しずつ買ってもらっていたのです(池袋の芳林堂や中野のサンモール商店街にあった書店などで購入した記憶がある。大抵は回転ラックに収められていた)。
 その家には一歳年下の従姉妹がおり、互いに重複しない巻を選んで購入し、交換して読んでいました。

 その後、鶴書房は倒産したため、「PEANUTS BOOKS」は角川書店に版元を移し「SNOOPY BOOKS」と名称を変えます。しかし、既に中学生になっていた僕は、ピーナッツを子どもっぽいと感じ、距離を置いてしまいました。
 尤も、これは通過儀礼なのかも知れません。ピーナッツだけでなく、「藤子不二雄」「月刊コロコロコミック」「ザ・ドリフターズ」「駄菓子」など大好きだったものと一時決別したのも同じ時期だったような気がします。

 大人になり、蒐集を再開しようと考えたとき「SNOOPY BOOKS」は既に絶版でした。しかも、「SNOOPY BOOKS」「スヌーピー全集」「A PEANUTS BOOK featuring SNOOPY」「Sunday Special Peanuts Series SNOOPY」などを集めたところで、すべての作品が読めるわけではなかったため蒐集欲が湧かず、ピーナッツに関しては少年時代の思い出のみに頼る日々を過ごしていました(※2)。

 二十一世紀になると、アメリカで『The Complete Peanuts』が刊行され始めました。けれども、このシリーズは完結まで十二年もかかり、途中で邦訳もされなかったため、ほぼ忘れかけていたところ、河出書房より日本版が発売されるという嬉しいニュースが入ってきました(※3)。
 これによって、心残りが何十年ぶりかに解消されたのです。
『完全版ピーナッツ全集』は、全集の名に相応しくすべてのピーナッツが収録され、さらに前身の『ちびっこたち』Li'l Folksや「サタデーイヴニングポスト」に掲載された一コマ漫画まで収められています。

 それにしても、死ぬまでに『藤子・F・不二雄大全集』と『完全版ピーナッツ全集』のふたつを入手できるとは思ってもいませんでした。
 日米の傑出した漫画家の作品をリアルタイムで楽しみ、さらに完全版(※4)も手に入れられるとは、何と幸せな時代に生んでくれたのかと親に感謝したい気持ちです(※5)。

 さて、今回は感想というより、「自分にとってピーナッツとはどんな存在だったか」を述べたいと思います。

 ピーナッツは「悩める子どもたちを描いた漫画だ」とか「哲学的な漫画だ」などといわれます。
 実際、ピーナッツのキャラクターは、それぞれ悩みや劣等感を抱えていますし、それが明るいだけの少年漫画にはない深みを齎していることは間違いありません。しかし、そればかりに焦点を当てるべきではないとも思います。

 何よりも大切なのは、彼らは「ひとりぼっちではない」ってことです。

 子どもも大人も、悩みの多くは人間関係から生じます。少なくとも僕は、この歳になっても人と上手くつき合うことができません。
 大人になってからは「どんな生き方をしようと、最後は死んでしまうんだし、まあいっか」と思えるようになりましたが、子どもの頃は孤独が堪らなく怖かった記憶があります。

 だからこそ、ピーナッツの世界をとても羨ましく感じました。
 チャーリー・ブラウンは「誰からも愛されていない」「何をやっても上手くゆかない」という苦悩を抱えていますが、家にはサリーもスヌーピーもいるし、外へ出ればルーシー、ライナス、ペパーミント・パティらが待っています。一緒にスポーツをする仲間もいるし、ひとりで凧揚げをしていても「凧を食べる木」が相手をしてくれます。
 本気でやりきれなくなったときは、ルーシーの「心の相談室」だってあるのです。

 一方で、両親や教師といった大人は、存在すれど姿を現しません。
 絶対に勝つことができない野球の対戦相手や、恋が成就する見込みのない「赤毛の女の子」もみえない仕組みになっています(スヌーピーにとっては、宿敵である「隣の家の猫」が一度も描かれない)。日本の少年漫画には必ずといってよいほど登場する「美少女」が姿をみせないのは、現実の世界において惨めな少年と美少女が恋人になることなどあり得ないからです。それであれば、美少女など存在しないも同然です(シュルツの最晩年にシルエットのみ登場させた)。
 都合の悪いものを、ここまで堂々と隠してくれたことに子どもながらに感激しました。「劣等感を抱くのは恥ずかしいことではないし、それを隠す必要もない」ということをシュルツに教えてもらったような気がします。
 勿論、授業やサマーキャンプなど、子どもが嫌いなことは残っていますが、それらと、いじめや偏見を甘受することとは全くの別物です。

 さらにピーナッツは、基本的にギャグ、ユーモア漫画である点も重要です(藤子・F・不二雄の漫画も同様)。
 いくら仲間が多くても、ひたすら真面目に苦悩する漫画など、少なくとも小学生のときは読みたくありませんでした。多彩なキャラクターが、それぞれの特徴を生かして笑いを生み出し、それを友だちのような気分で楽しむのが好きだったのです。
「友だち」と「笑い」。このふたつの要素が揃って初めて、その世界が輝いてみえます。

 歳を取ってから読み返すと、月並みですが、懐かしい仲間に再会したような気持ちになります。永遠に大人にならない彼らは、最高の癒やしを与えてくれます。
 などと格好つけた話はこれくらいにして……。何よりありがたいのは、二十五冊もあるので、ときどき取り出してつまみ食いし、ニヤニヤするという老後の楽しみができたことです。
 死ぬまでに二、三周読むことができたら幸せなんですけど、果たしてどうなりますことやら(※6)。

※1:米国のコミックストリップがこれだけの巻数刊行されたのは谷川俊太郎の功績が大きかった。幸運な出会いである。

※2:ピーナッツも『ドラえもん』も単行本は選集なので、作者の意向で収録されなかった話が多い(例えば、シュルツは、大人を描いてしまった回を単行本に入れるのを拒否した)。そのため、作者が亡くならないと完全版は出せなかった。悲しい皮肉である。

※3:日本版は「スヌーピー誕生70周年記念」とある。僕は、ちょうど三十五年前に「スヌーピー生誕35th」として刊行された『スーパー・スヌーピー・ブック』(写真)を購入している。この本は何と「SNOOPY BOOKS」四冊分の厚みがある。なお、生誕六十五周年時には同名のムックが発売されている。

※4:『藤子・F・不二雄大全集』は、初期の合作など未収録作品も多い。『完全版ピーナッツ全集』は、日曜版の一部のコマが未発見のため、別の絵やタイトルを掲載している。

※5:漫画に関しては「手塚治虫文庫全集」も揃えたし、今後、大部の全集を購入することはなさそう(『リトル・ニモ』の一九二四年以降を含めた完全版が出たら買うけど)。
 小説は、山田風太郎井上ひさし筒井康隆の三人はそれぞれ百冊以上の書籍を持っているし、これから読み返す時間が残されていないこともあって、完璧な全集が出ても買わないと思う。
 唯一の未練は、P・G・ウッドハウス。翻訳なのでハードルが高いが、全集が刊行されたらダブりを気にせず全巻購入するので、どこかの出版社で検討してもらえないだろうか……。

※5:まとめて読むと気づくこともある。例えば、一九六六年一月二十四日と同年十二月二十日は、絵柄こそ違えどネタも科白も全く同じ。


『完全版ピーナッツ全集』谷川俊太郎訳、河出書房新社、二〇一九〜二〇二〇

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