読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『キャロル』パトリシア・ハイスミス

The Price of Salt(republished as Carol in 1990)(1952)Patricia Highsmith

 パトリシア・ハイスミスの長編は二十二作あり、そのすべてが邦訳されています。しかも、それらは文庫で読むことができます。
 短編集も九冊出ています。生前に刊行された七冊に加え、日本オリジナルの短編集もあります。加えて、『サスペンス小説の書き方』というハウトゥ本まで発行されており、邦訳に関してはこれ以上望みようのない状況です(※1)。

 ハイスミスが日本に初めて紹介されたのは、一九六六年の『慈悲の猶予』(『殺人者の烙印』)です。その後、一九七〇年代にも少しだけ翻訳されましたが、後が続かなかったところをみると、恐らくほとんど話題にならなかったのではないでしょうか。
 それが一九九〇年代になって俄然、翻訳が進みます。河出文庫、扶桑社ミステリーなどから、ほぼすべての長編が出版されたのです。

 僕は推理小説が苦手な癖に、ハイスミスは全部持っています。一気に読んでしまうと老後の楽しみがなくなるため、わざと読まない作品があるほど好きな作家です。
 なぜ、ハイスミスは読めるのでしょうか。その鍵は「彼女は、自分がミステリーを書いているとは思っていなかった」という点にありそうです(※2)。

 例えば、ハイスミスについては、こんな風に書かれることがよくあります。
「彼女を〈推理作家〉と思うから見当ちがいな批評が生じるので、面白いところは別なのだ」(小林信彦『本は寝ころんで』)
「自分がミステリ作家だと認識していなかったらしいハイスミスにとっては、それがトリックだという発想さえなかった可能性がある」(千街晶之『見知らぬ乗客』解説)
「ハイスミス自身、自分の書くものを、サスペンス小説やミステリとは、考えていなかったようですし、もともと、クライムストーリイは普通の小説に近いものです。また、実際のところ、ハイスミスは、ミステリから離れていくことで、円熟していった作家だと思います」(小森収『ガラスの独房』解説)
「『見知らぬ乗客』は〈ハーパー・ノヴェル・オヴ・サスペンス〉というサスペンス小説叢書の一冊として世に出たため、サスペンス作家というレッテルを貼られたのがいやだった。(中略)作品がサスペンス小説と呼ばれるのはかまわないが、あくまで自分はただの作家のつもりだ、と」(宮脇孝雄『妻を殺したかった男』解説)


 実際、ハイスミスの小説は、通常のサスペンス小説とは楽しみ方が異なります。この先の展開や意外な真相を期待して、ハラハラしながらページを捲るというよりも、登場人物の心の動きをじっくり味わう読み方が求められるのです。
 例えば、『ヴェネツィアで消えた男』などは、殺人や復讐を待ち構えていると、大いに裏切られるでしょう。

 勿論、ストーリーやプロットは面白いし、着地の仕方もユニークです。けれど、本当に素晴らしいのは荒唐無稽なアイディアを、読者に不自然と感じさせない手腕です。
「列車で知り合った見知らぬ男に交換殺人を持ちかけ、なおかつ実行させる」(『見知らぬ乗客』)、「妻を殺した男と、それを真似ようとしているうちに妻が死んでしまった男。そして、ふたりの有罪を信じている刑事」(『妻を殺したかった男』)、「殺人を犯した夫婦に協力を申し出て、ともに逃げ回る青年」(『殺意の迷宮』)なんて設定は、いい加減に書くとリアリティのないほら話になってしまいます。ハイスミスは、アブノーマルな人物を登場させることが多く、これも一歩間違えれば現実感が乏しくなります。推理小説を読んでいてよく思う、「そんなことあるわけないよな」「こんな奴いねーよ」というやつです。

 ところが、ハイスミスの小説からそれを感じることはほとんどありません。異常な心理を丁寧に描いているため、登場人物に感情移入でき、いつの間にか「自分が同じ立場だったら、そう行動するだろうな」と思い込まされてしまいます。
 だからといって、無駄に書き込んだりはしません。例えば、科白と科白の間に「間」などとト書きのように書いてあったりするのです。この塩梅のよさは、正に名人芸といえます。

 そうしたところが、推理小説が得意でない僕でも楽しめるのだと思います。
 欧米のミステリー作家がよくやる「なんちゃら警部シリーズ」みたいのを書かない点もありがたい。唯一のシリーズキャラクターであるトム・リプリーも五作にしか登場しません。

 さて、『キャロル』(写真)は、一九五二年に『The Price of Salt』のタイトルで、クレア・モーガン(Claire Morgan)名義で出版されました。「レズビアン小説初のハッピーエンド」といわれ、同性愛者に熱狂的に支持され、ベストセラーになります。
 けれど、一九九〇年代に日本でハイスミスのブームがきたとき、長編小説としては唯一邦訳されませんでした。同名の映画(※3)が公開されなかったら、今も眠ったままだったかも知れません。

 邦訳されなかったのは『キャロル』がミステリーやサスペンスではなく、女性同士の恋愛を描いた小説(ハイスミスは、それをガールズブックと呼んだ)だからだと思います。
 ハイスミスはミステリーを書いているつもりはなかったとしても、読者の多くはミステリーだと思って読んでいます。けれども『キャロル』には謎や犯罪の要素はないため、それを期待する人を裏切ることになり兼ねません(※4)。

 さらにいうと、ハイスミスは女性にもかかわらず、長編小説の視点人物がほぼ男性という珍しい作家です(女性が主人公なのは『イーディスの日記』のみ)(※5)。
 彼女は「よい物語は作家の感情からしか生まれない。計算し尽くされたサスペンスにさえ作家自身の体験が盛り込まれている」と語っていますが、主人公とは性別が異なる上、作者のなかで経験や感情が消化されており、生の形で現れないのです。
 そして、読者も「それこそがハイスミスだ」と考えていたのではないでしょうか。

 一方、『キャロル』は、百貨店でアルバイトをしていた自身の経験を元にしており、しかも、『見知らぬ乗客』が世に出る前に書かれた小説です。
 今となっては、その両方の意味で価値がありますので、亡くなる前に真の作者が自分だと打ち明けてくれて本当によかったと思います。

 十九歳のテレーズ・ベリヴェットは、舞台美術家を夢みつつ、デパートで売り子のアルバイトをしています。リチャードという画家見習いの恋人はいるものの、愛していると感じたことはありません。そんなとき、客として現れた上品な既婚女性のキャロル・エアドに恋してしまいます。
 キャロルは夫と離婚調停中で、テレーズは恋人を愛することができません。やがて、ふたりは車で小旅行に出かけるのですが、キャロルの夫が雇った探偵に盗聴され、娘の親権を奪われてしまいます……。

 テレーズは、キャロルに一目惚れしますが、それが年上の素敵な女性に対する憧れなのか、それとも最初から恋愛感情を抱いていたのかは、リチャード同様、僕にもよく分かりません。
 テレーズ本人にも、キャロルが特別なのか、ほかの女性を好きになる可能性もあるのか分かっていないようです。けれど、本当は、女性を好きという気持ちを自分に偽って生きてきたことに気づいているのでしょう。

 テレーズとキャロルは最初、甘さ控えめのつき合いでした。辛辣な言葉をぶつけ合い、苛立ったり傷ついたりします。僕は、恋愛小説をほとんど読まないので何ともいえませんが、ふたりのやり取りは、流血を厭わない決闘のような雰囲気があります。
 殺人は起こらないものの、後年のサスペンス小説と同じような緊迫感に満ちているのです。勿論、相手を憎むのではなく、強く思っているが故に禁断の愛に溺れないよう自らを律しているわけですが、互いに捨てられないギリギリを攻める様子は、寧ろ犯罪小説よりスリリングです。
 キャロルは、年齢も経験も社会的地位も経済力もテレーズより上ですが、恋愛においては対等、いやテレーズの方が若干優位にみえる点もハラハラする要因のひとつかも知れません。

『キャロル』は恋愛小説としてだけでなく、女性版バディナラティブとしても、ロードナラティブとしても楽しめます。
 また、同性愛者が社会的に虐げられていた時代に、愛を貫こうとするテレーズとキャロルの姿を真面目に描き、前向きにラストを迎えるという意味で革新的だったといわれています。何しろ、それまでのLGBT小説は、主人公が自殺するか、異性愛に転向するかしかなかったそうですから……。

 小説としての先進性に加え、現在ではハイスミスの自伝的作品としての意味も大きいでしょう。
 テレーズが男を捨て、女性に目覚める過程を描くことは、自身の創作活動にとって非常に重要だったはずだからです(偽名で発表されたため、当時の読者にとっては関連づけられなかったであろうが……)。

 にもかかわらず、彼女がそれ以降、ガールズブックを書かなかったのは、毒親といわれる母と、その家族(ハイスミスは義父の姓)に迷惑を及ぼすのを避けるためだったといいます。ハイスミスは、『キャロル』の作者が、自分だと母にバレる前にヨーロッパに旅立ち、そこで『太陽がいっぱい』を完成させました。
「私が小説を書くのは、生きられない人生の代わり、許されない人生の代わり」というハイスミスですから、『キャロル』がそれほど売れなければ、マイナーなガールズブックを書き続けていた可能性もありました。
 恐らく、その方が彼女自身は幸せだったのかなと思いつつ、『キャロル』がベストセラーになったことで、数多くのサスペンス小説が読者のもとに届けられたわけですから、ファンとしてはとても複雑な気持ちになります。

 なお、ハイスミスは一九九〇年に、この小説の作者が自分であることを明らかにし、『キャロル』とタイトルを変え(※6)、再発売します。
 その後、彼女は二冊目のLGBT小説である『スモールgの夜』を出版しますが、残念ながらこれが遺作になってしまいました。

※1:『Miranda the Panda is on the Veranda』というジュヴナイル(ドリス・サンダースとの共作)は未訳。

※2:ミステリー作家なら、予め犯人が分かっている『動物好きに捧げる殺人読本』などという連作短編を書かないだろう(山田風太郎の『妖異金瓶梅』は例外)。

※3:映画は、登場人物の職業(テレーズが写真家志望で、ダニーは記者)や、ミセス・ロビチェク(人生に疲れた女性。醜さの象徴)が存在しないこと、同性愛が病気のように扱われることなどの相違点がある。キャロルの、テレーズへの想いと娘への想いにも違和感がある。さらに、テレーズが受け身という印象を受けた。原作では、寧ろ主導権を握っている。

※4:フレドリック・ブラウンの唯一翻訳されていない長編『The Office』も一般小説である。

※5:女性を主役にしない理由を尋ねられたハイスミスは「私には、女性が一人前の存在に思えない。自立しておらず、男性との関係が切り離せないようにみえる」と答えている。

※6:元のタイトルである『The Price of Salt』は、Saitには「生気を齎すもの、刺激」という意味もあるため、「刺激の代償」といったニュアンスか。


『キャロル』柿沼瑛子訳、河出文庫、二〇一五

LGBT小説
→『マイラ』『マイロン』ゴア・ヴィダル
→『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』メイ・サートン
→『ヴィーナス氏』ラシルド
→『絢爛たる屍』ポピー・Z・ブライト
→『夜の森』ジューナ・バーンズ
→『女になりたい』リタ・メイ・ブラウン
→『もう一つの国』ジェイムズ・ボールドウィン