読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ドン・キホーテのごとく』スティーヴン・マーロウ

The Death and Life of Miguel De Cervantes(1996)Stephen Marlowe

 主にSFやミステリーを執筆したスティーヴン・マーロウは、様々な筆名を駆使したことでも知られています。
 邦訳があるものでは、エラリー・クイーン名義の『二百万ドルの死者』や、ミルトン・レッサー名義の『宇宙大オリンピック』などなど。

 なかでも僕が好きなのは、歴史(改変?)小説です。
 邦訳されているものでは『秘録コロンブス手稿』や『幻夢 ―エドガー・ポー最後の5日間』などがそれに当たります。
 さらに、ミゲル・デ・セルバンテスの架空の自伝という体裁の『ドン・キホーテのごとく』(写真)も、そのうちの一冊。

 セルバンテスに関する同時代の史料は極めて少なく、代表作の『ドン・キホーテ』も当時既に古臭くなっていた騎士道小説のパロディなので、そこから人物像を導き出すことはできません。
 そのため、マーロウはかなり自由に執筆したといわれています。
 さらに、史料の空白は、時間と空間を思い切って飛び越えたりします(ロンドンで瀕死の重傷を負って、目覚めると三年後のマドリードにいたりする)。
 ですから、「事実と違う!」などと目くじらを立てず、マーロウが想像力で作り出した十六世紀の欧州(主人公のセルバンテスは、スペインは勿論、イタリア、フランス、オランダ、イギリスなどを縦横無尽に旅する)を楽しむのが得策でしょう。

 実をいうと僕は、このタイプの小説が大好きです。
『秘録コロンブス手稿』は勿論、ほとんど史料のない十八世紀の桂冠詩人エベニーザー・クックの生涯を、奔放な想像力と当時の文体を駆使して描いた、ジョン・バースの大作『酔いどれ草の仲買人』など正に好みの極地です。
 そうした作品の持つ共通点を述べる前に、まずはあらすじを。

第1部 ミゲル・デ・セルバンテスの死(上巻)
 先祖がユダヤ教からの改宗者で、床屋兼外科医の父親の長男(六人姉弟の三人目)として生まれたミゲルは、物語が好きな少年でした。また、姉のアンドレアのことが大好きで、彼女を侮辱した男を決闘で倒してしまい、イタリアに逃げることになります。
 そこで、弟のロドリーゴとともにレパントの海戦に参加し、その後、ギリシャ人に捕まり、アルジェリアで捕虜として五年も過ごします。そして、脱走を企てた罪によって死刑台に上がりますが、既のところで救われ、スペインに帰国します。
第2部 ミゲル・デ・セルバンテスの生(下巻)
 四年後、ミゲルは三十七歳になっています。カタリーナという田舎娘と結婚し、姪のコンスタンサを父親から救い出し、行方をくらませたアンドレア(血の繋がりがないことが判明する)を探しにゆき、末の弟ホアンの命令で秘密の任務に就いたりします。
 アムステルダムで刑務所に入った後、マドリードの家族の元へ戻ったミゲルは、公金横領の罪(濡れ衣)でセビーリャの牢獄に放り込まれます。そして、そこで『ドン・キホーテ』の執筆に取り掛かるのです。

 自伝ではありませんから、脱線と奇想天外なアイディアが山盛りです。そのため、まずは中世が舞台の冒険小説やビルドゥングスロマンとして楽しむのがよいでしょう。
 加えて、『ドン・キホーテ』のパロディでもあるので、スラップスティックという側面もあります。
 こうした虚構色の強い物語の場合、堅苦しさは不要で、サクサク読める方がよいのです。といっても、白けるほどハチャメチャではなく、アルジェリアから五年もかけて脱出する場面はアレクサンドル・デュマ(大デュマ)の『モンテ・クリスト伯』のように頁を繰る手が止まりません。

 しかし、最も重要なのは、この小説がメタフィクションである点です。
 メタフィクションとは単に作中作ではなく、自己言及的な文学です。つまり、作品中で、自作や作者自身に対する批判が含まれていないといけません。

 勿論、本家『ドン・キホーテ』も立派なメタフィクションであり、『ドン・キホーテのごとく』もその点をしっかりと踏襲しているわけです。
 未来に自由に行き来できるシデ・ハメテ・ベネンヘリのおかげで、語り手のミゲルは自分自身を歴史家の目で捉えることができます。さらに、歴史とフィクションの時間が異なる点についても、きちんと認識しています。
 例えば、自分が死ぬ日とウィリアム・シェイクスピアの死ぬ日は同じといわれていますが、グレゴリウス暦を採用しているスペインに対して、古いユリウス暦固執するイギリスとでは歴史的に同日ではないと語るのです(これが伏線となり「死刑から逃れる」)。

 また、ミゲルは『ドン・キホーテ』についても言及します。こちらは虚構の語り手にとっての自作であり、マーロウの作品ではありませんから、厳密にいうとメタフィクションではないのですが、読んでいると混乱してくるのも面白いところです。
 さらに、セルバンテスの未発表の作品や、少女に語り聞かせる物語が作中作としていくつか披露されます。これも当然フィクションのフィクションですが、『ドン・キホーテ』の一挿話としても違和感がないくらいユニークなのです。

 虚構の人物、実在の人物(シェイクスピアロペ・デ・ベガ、トルクアット・タッソ、アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダなどなど)と並んで、セルバンテスの小説の登場人物(セルバンテスが『ドン・キホーテ』の作中で、真の作者としたシデ・ハメテ)が現れるのも特徴のひとつです。
 シデ・ハメテは『ドン・キホーテ』における大いなる謎でしたが、『ドン・キホーテのごとく』では、彼とミゲルの対話により大作の構想が練られてゆくという仕掛けになっています(作中、真の作者をシデ・ハメテとした理由も述べられる)。

 なお、このような小説の場合、「長さ」も大切です。
 長大な物語を、たっぷり時間をかけて楽しむ必要があるため、分厚い本が求められるのです。『ドン・キホーテのごとく』は上下巻で八百五十頁以上あるので当然、合格です(『秘録コロンブス手稿』には及ばないが……)。
 幸せな読書の時間は長ければ長いほど嬉しいですからね。

 一方、やや不満なのは、創作に関する部分がとても少ない点です。
ドン・キホーテ』の執筆に取り掛かるのは、物語の終盤で、書き出しを練るシーンなどは待ちに待っていただけあって、とても興味深いのですが、あっという間に別の場面に変わってしまうのが残念です。
 シェイクスピアロペ・デ・ベガ、クリストファー・マーロウと文学談義する場面も余りにあっさりしすぎています。

 フィクションのミゲルは、創作に力を入れるより、自ら冒険する方に注力しています。
 彼の人生は家族を集める旅という面が強く、散り散りになった家族を求め、晩年になっても盲目的に旅するミゲルの姿は、憂い顔の騎士に重なります。
 物語の最終盤、『ドン・キホーテ』によって名声を得(富は得られなかった)、宮廷が移ったバリャドリーで身内の女性たち(妻のカタリーナ、姉のアンドレア、妹のマグダレーナ、姪のコンスタンサ、娘のイサベル)が一堂に介したにもかかわらず、ミゲルから哀愁が漂っているのが読者の心を打ちます。

 やがて、高齢の彼は、長年愛し続けた女性ミカエラを追って、何度目かの冒険に旅立つことができず、最愛のアンドレアも失ってしまいます。
 残っているのは最早「死」しかないと悟ったとき、ミゲルが行なったのは、空想のなかで遍歴を反芻することでした。

 思わず落涙するくらい感動的、かつ理想的な臨終シーンです。
 物語のラストとしては勿論、現実でも、ミゲルのように虚構まみれの人生を振り返る最期を迎えたいと、しみじみ考えてしまうのです。

ドン・キホーテのごとく ―セルバンテス自叙伝』増田義郎訳、文藝春秋社、一九九六

ドン・キホーテ』関連
→『ナボコフのドン・キホーテ講義ウラジーミル・ナボコフ
→『贋作ドン・キホーテアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダ
→『キホーテ神父グレアム・グリーン
→『ドン・キホーテキャシー・アッカー
→『ペルシーレス』ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ
→『ケストナーの「ほらふき男爵」エーリッヒ・ケストナー