読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『カット!』マルカム・ブラッドベリ

Cuts(1987)Malcolm Bradbury

 マルカム・ブラッドベリは、職業(大学教授)、年齢、活躍した時期、作風(日本ではコミックノベルと紹介されることが多いが、キャンパスノベルやアカデミックノベルと呼んだ方が正確か)などが、デイヴィッド・ロッジとよく似ています。
 我が国では、架空の思想家を追った『超哲学者マンソンジュ氏』が最も知られているでしょう。
 これは、いわゆるモキュメンタリーで、筒井康隆の『文学部唯野教授』や、同じ平凡社ライブラリーではハラルト・シュテンプケの『鼻行類』との関連で読まれていたように思います。

 ブラッドベリのフィクションは、もう一冊だけ邦訳があります。それが『カット!』(写真)で、彼が関係していたテレビ業界を描いています。
 諷刺対象は、一九八〇年代の英国の首相マーガレット・サッチャーが進めた政策、通称サッチャリズム。これは、水道・ガス・鉄道などの民営化、小さな政府、インフレ率低下などを齎した緊縮財政政策(カット)を指します。
 アーヴィン・ウェルシュの『トレインスポッティング』が、正にその時代を描いているといえば分かりやすいでしょうか(スコットランドのヘロインパンデミック)。また、映画『リトル・ダンサー』における炭鉱労働者のストライキ(架空の町エヴァリントンは、イージントンがモデルといわれている)も抗議活動の一種でした。

 サッチャリズムは結局、失業率の上昇や経済格差を生み、サッチャー政権の崩壊を招きましたが、物語の舞台は、その少し前に当たる一九八六年の夏です。
 政府の予算が削減され、様々なサービスが縮小されましたが、英国放送協会(BBC)も当然、そのとばっちりを受けました。ブラッドベリ自身も、脚本を担当した番組が撮影直前にお蔵入りしたことがあったそうです。
 当時の英国の社会背景はともかくとして、予算やスポンサーに振り回される映像制作の現場の苦労は、時代や国を変えても共通点が多いでしょう。

 独立系の番組制作会社エルドラドテレビのメロー会長は、大物俳優からクレームがついたため、新しい作家によるテレビドラマの制作を命じます。白羽の矢が立ったのは、田舎で暮らす無名の作家兼大学の教員のヘンリー・バーバクームでした。
 人員を削減していた大学を辞めることになり、脚本の執筆に専念するバーバクームですが、浮き世離れした田舎のアカデミックな世界から、俗物に溢れる都会のテレビの世界へと移り、大いに戸惑います。
 テレビ業界に散々振り回されたバーバクームは、ついに脚本を仕上げますが……。

 ブラッドベリは、カズオ・イシグロイアン・マキューアンの出身大学であるイーストアングリア大学の教授として、長年に亘ってアメリカ文学を教えていました。
 その傍ら、テレビの脚本も数多く手掛けていたそうです。
 さらにユーモリストとしてもレベルが高いのですが、読者にもある程度の知識や教養が求められる作風です。

 例えば、『超哲学者マンソンジュ氏』に「みずからも逃避の術に長けていた詩人エミリー・ディッキンソンはかつてこう述べた−『伝記は何よりもまず、伝記の対象が逃げてしまったことを確信させます』」なんてことが書いてありますが、ディッキンソンは多分そんなことはいってないでしょう(ヴァージニア・ウルフも書かないと思う)。
 また、「あまりに有名な『ケル・テル』に関係しており」は勿論、『テルケル(Tel Quel)』を茶化しています。
 こういうのを面白がれないと辛いけれど、逆に、好きな人には堪らなくおかしいはずです。

『カット!』は、普通の体裁の小説ですから、そこまで注意深く読む必要はありませんが、インテリの会話に出てくるアイロニーサタイアを流してしまうと、やや勿体ないかも知れません。
 とはいえ、ブラッドベリの専門は文学ですから、当然文学や現代思想ネタが多く、この本を読もうと思う人にとっては十分に守備範囲でしょう。
 何しろ「ヘンリの作品が従来、一握りのエリートの精選された読者の間のことにせよ、その自己言及的、自意識的なエクリチュールで有名だったとすれば、構造主義を奉じる批評家は今度の作品に十年間こつこつ取り組んでも、所記(シニフィエ)だのなんだのといったものはなんの痕跡も見つけられないだろう」なんて感じの分かりやすさですから。

 さて、この小説のテーマである「カット」は、テレビの世界でも、バーバクームの所属するアカデミックな世界でも猛威を振るいます。
 制作費、広告費、人件費を始め、学生数、教科数、学生寮、図書館などあらゆるものが削られてゆきます。ボケっとしていると、世界が消滅してしまい兼ねない勢いです。ジョルジュ・ペレックの『煙滅』や筒井康隆の『残像に口紅を』のような雰囲気もあります。

 もうひとつの特徴は、「カット」という単語のあらゆる意味を利用した言葉遊びです。
 ただし、翻訳は、単に「採掘(カット)」「推敲する(カット)」「無視する(カット)」のようにルビを振ってあるだけなのが、やや残念です。
 とはいえ、例えば、すべてに「切」という漢字を使用して、「切除」「緊切」「切削」などとしたのでは却って分かりにくくなるでしょうから難しいところですが……。

『カット!』は、ユーモア小説としても合格点をつけられます。
 マニアックな小説は読みにくいと相場が決まっていますが、これは会話が軽快ですし、地の文のテンポもよいので、あっという間に読み終えてしまえます。
 ストーリーもよい意味でシンプルで、中編程度のボリュームというのもポイントが高い。

 テレビの内幕というとエキセントリックな人物による梁山泊のようなものを思い浮かべるかも知れませんが、『カット!』は違います。奇抜なキャラクターに頼ることなく、誰もが真面目に行動するが故に、ズレていってしまう点にも好感が持てるのです。
 バーバクームの脚本が全く進んでいないのに、配役やロケ地、キャラクターの行動が決まってしまい、それどころか脚本の修正まで始まっているというナンセンスだけど、テレビ業界では十分あり得そうな場面などは抱腹絶倒の面白さです(出来のよし悪しではなく、AをBに直すためだけに存在する人もいる。例えば、「夜」と書くと「昼」に変更する)。

 しかも、バーバクームは折角脚本を書いたにもかかわらず、ロケ地が日本からスイスに変更になったという理由で没にされたり、そもそも彼がテレビの仕事をすることになった理由はエージェントの女性がドラマ担当の部長と寝たことだったと分かったりします。
 自身も、制作部長の女性と恋仲になり、ベッドでの会話では、セックスの話をしているのか、脚本の話をしているのか分からず、混乱するというギャグもあります。

 そんなこんなで漸く脚本が仕上がり、撮影が始まりますが、そこで何と主演女優が降板し、代役もいないため、その登場人物を削ったものを一晩で書き上げなければならなくなります。
 最悪の窮地に追い込まれたとき、バーバクームは気づくのです。テレビドラマのシナリオにはテーマも、説明も、脈絡も必要なく、意味も不明瞭でよいことに……。

 さらに最後には、白けるほどとんでもない事件が連続して起こります。『カット!』だけにオチは最初から読めていますが、この物語には陳腐な予定調和が相応しいでしょう。
 なぜなら「安っぽくなければテレビではない」からです。

『カット!』真野明裕訳、福武書店、一九九〇