Angel(1957)Elizabeth Taylor
海外文学に関する専門書を読むと、頻繁に目にしながらも、邦訳が少なく、ほとんど読んだことの作家がいます。
エリザベス・テイラーもそのひとりでした(※)。
女優と同姓同名ということもあって興味はあったものの、読むことができたのは岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選〈下〉』に収められていた「蝿取紙」だけだったのです(感想はこちら)。
それが二十一世紀になると『エンジェル』(写真)と『クレアモントホテル』が映画化され、原作も邦訳されました。特に『エンジェル』は、白水社と講談社でほぼ同時に刊行されるという、何とも勿体ないことが起こったのです。
ジェイン・オースティンと比較されるケースが多いようですが、「蝿取紙」にしろ、『エンジェル』にしろ、かなり癖の強い少女が登場します。
寧ろ、同世代のミュリエル・スパークによく似た悪意を感じるのです。
アンジェリカ・デヴェエル(エンジェル)は、友だちもおらず、浮いた存在です。母や叔母をはじめ大人とも上手くゆかない彼女は、十五歳のとき、突然学校をやめ、小説を書き始めます。それが出版され、大いに売れますが、評価は芳しくありません。
エンジェルは、現在なら発達障害と診断されそうな、他者とのコミュニケーションが苦手な少女です。本人は普通に接しているつもりが、他人を苛つかせたり、呆れさせたりします。
周囲の反応は勿論、彼女が抱える生きづらさがしっかり描かれるので、ハラハラしながら頁を捲ることになります。
一方で、エンジェルは文学に関して天賦の才能を持っています。小説なんかほとんど読んだこともないのに、語彙や表現は豊富で、何より想像力が抜群に優れています。
それを見抜いた出版社の編集者セオ・ギルブライトはよき理解者になりますが、彼の妻のハーマイオニや共同経営者のウィリー・ブレイスらはエンジェルを小馬鹿にします。
また、彼女が書いた小説は話題になり、大金を生み出すものの、批評家は鼻で笑い、良識のある読者からは低俗といわれ避けられてしまいます。
この手の話は、現実でもよくみかけます。
例えば、高校生が新人賞を受賞しデビューすると、出版社が大々的に宣伝し、同世代を中心に、余り本を読んだことのない人が手に取る。しかし、眉を顰める大人たちも同じくらいいる。その両者を巻き込んで、いつの間にかベストセラーになり、映画化やドラマ化されるが、賞味期限は短く、あっという間に消えてしまう……なんてパターンがそれです。
若くしてベストセラー作家になったエンジェルは、生来の性質がより色濃く表れます。傲慢で、虚栄心が強く、歯に衣着せぬものいいをします。一方、些細な批判も気にし、攻撃的になるという繊細な面も持ち合わせています。
その結果、多くの人から煙たがられます。『エンジェル』の読者の多くも、彼女に反感を抱きながら読み進めることになるのではないでしょうか。
誰からも愛されることなく、大人になってしまったエンジェルは、ある日、エズメという画家と、その妹で詩人のノーラと知り合います。
エンジェルはたった一度会っただけのエズメを熱烈に恋し、一方、ノーラはエンジェルを崇拝し、詩を捨てて彼女の身の回りの世話を始めます(エンジェルの母が亡くなったため)。
プレイボーイで放蕩者のエズメでしたが、エンジェルの経済力に釣られ、彼女と結婚します。さらにエンジェルは、少女の頃からの憧れだったパラダイス・ハウスという屋敷も手に入れました。
しかし、順風満帆な日々は長く続かず、間もなく第一次世界大戦が始まり、エズメは出征してしまいます。我儘放題で生きてきたエンジェルは、ここへきて最大の苦難を迎えます。
それは、戦争を憎むことで平和主義になった彼女の小説が売れなくなってきたことです。
他人から蔑まれようと好き勝手にやってこられたのは、莫大な印税収入があったからです。これなくしては、エンジェルはエンジェルでいられなくなってしまいます。
弱り目に祟り目で、様々な不幸が降りかかります。
片足を失ったエズメが事故死し、ノーラが病に倒れ、屋敷は荒れ果て、セオも出版社を辞めたため、エンジェルの収入はますます減ってゆくのです。
さらには、老いが彼女に襲いかかります。
他人と上手くつき合えず、セオ、ノーラ以外に味方がいないエンジェル。作家としても、高いプライドに反比例する評価しか得られず、最後には彼女の作品を知っている読者はほとんどいなくなります。
こうしたエンジェルの人生を、惨めで、意味のないものと受け取る人もいるかも知れません。だが、果たして、そうなのでしょうか。
エンジェルは、常に幸福に満ちています。苦い思い出も、哀れな現状も、彼女にとっては栄光の日々なのです。
なぜなら、エンジェルは、その類稀なる想像力で生き抜いてきたからです。
知識や経験がなくとも作家として成功したのは勿論そのお陰ですし、不都合な現実をみなくて済むのもそれがあるためです(一方、セックスは嫌う。愛する夫であっても、性行為は想像の余地がなく現実的である)。
小説家は、大なり小なり現実とは別の次元で生きているようなところがあります。
その傾向が顕著なエンジェルの一生を、凡人の感覚で評価するのは慎むべきだと僕は思います。
実際、晩年、筆を執らなくなったのは、想像力が枯渇したからでも、執筆意欲が湧かなくなったからでもなく、世界が蒙昧になったことが最大の原因です。
彼女の作品は、それに触れようとする者がいなくなった時点で消えてしまうのです。これほど純粋で、幸せな小説家は、そうそういないのではないでしょうか。
最後に、フランソワ・オゾンの映画についても、少しだけ触れておきます。
映画は、後半の展開が全く違います。それによって、愛した女に裏切られた女性の物語になっており、出来も凡庸です。
また、前半にエンジェルの栄光を描写します。多くの人々に称賛され、関係者の中心に常に位置し、有頂天になる様子が描かれるのです(前述のとおり、原作にはそうした場面はほぼなく、終始浮いた存在である)。
映画のエンジェルは自己中心的だけど、無邪気で悪気はなく、周囲の無理解によって転落してゆく悲劇のヒロインで、若くして失意のうちに死んでゆきます。しかし、そもそも彼女は、他人に振り回されることがほとんどなく、自分の一生に満足して亡くなるのですから、原作どおりに表現した方がよかったような気がします。
また、エンジェルのセックスシーン、エンジェルとノーラの同性愛を想起させるようなシーンがありますが、これも原作との大きな相違点です。小説のノーラはエンジェルの崇拝者から、次第にいいたいことをぶつけ合う姉妹のような関係になり、それは正にエンジェルの母と叔母に似てくるのです。
※:実はテイラーは、英国でも過小評価されているようである。
『エンジェル』 小谷野敦訳、白水社、二〇〇七