The Chess Mysteries of Sherlock Holmes(1979)/The Chess Mysteries of the Arabian Knights(1981)Raymond Smullyan
チェスプロブレムというパズルがあります。
「チェス版の詰将棋のことだろ」という答えは半分正解で、半分間違いです。というのも、チェスプロブレムには様々な種類が存在するからです。
論理学者レイモンド・スマリヤンの『シャーロック・ホームズのチェスミステリー(以下、シャーロック・ホームズ)』(写真)と『アラビアン・ナイトのチェスミステリー(以下、アラビアン・ナイト)』(写真)では、レトログレード解析(レトロ)といわれるプロブレムを扱っています。
レトロとは、盤面をみて、どのような経過で、今の形になったかを推理するパズルです。それを基本にして、例えば「プロモーション(昇格)したポーンはあるか」「白のキングは、何かの駒に化けている。それを暴け」「隠れている黒のキングを位置をみつけろ」といった様々なパターンの出題がなされます。
また、レトロを解くのにチェスの腕前は関係ありません。基本ルールさえ知っていれば、僕のような下手糞でも十分に楽しむことができます。
というか、「チェックされたら、チェックメイトを防ぐ」という大原則以外、現実の対局では絶対に指さないような悪手であっても、ルール上禁じられていなければひとつの可能性として検討する必要があるのです(ポーンがプロモーションする場合、普通はクイーンかナイトになるが、パズルではビショップやルークにになることもある)。
将棋は持ち駒があるため複雑になりすぎてしまいますが、駒の数も種類もマスも少ないチェスならば、ちょうどよい難易度でパズル化できます。逆に「プロモーション」「アンパッサン」「キャスリング」といったチェス独特のルールは、難しくなりすぎない程度にパズルの幅を広げてくれます。
さらにチェスは、マスが色分けされている(白マスのビショップは黒マスに移ることはあり得ない)、ポーンが独特の動きをする(隣の列に移るには必ず敵の駒を奪わなくてはならない)といった特徴があるため、それらを解読のヒントにすることができます。
本来ならここで問題例をあげたいのですが、図示せずに説明するのは困難です。興味ある方は、ぜひ書籍を購入していただきたいと思います。
はっきりいって、スマホのパズルゲームなどと比べると、面白さも満足度も桁違いに高い。
不自然な位置にある駒をみつけ、どうやったらこんな配置になりうるかを考える。また、一見不可能に思える状況も思考の角度を変えると意外な真実がみえてくるといった過程を経て、正解に至ると喜びも一入です。
お勧めは「一問一問じっくり時間をかけて取り組むこと」と「実際にチェスを用意してコマを動かしながら考えること」です。
さらに、『シャーロック・ホームズ』にはジェイムズ・モリアーティが子どもの頃に作ったとされる問題(実際はスマリヤンの子ども時代の作)が、『アラビアン・ナイト』にはカジールに仕えるチエス名人(勿論、スマリヤン自身)が作ったチェックメイトプロブレムがついています。
スマリヤンは七歳のときに初めて問題を作ったそうです。それから徐々に複雑かつ独創的になってゆく過程が確認できます。
一方、チェックメイトプロブレムはいわゆる「詰チェス」ですが、詰将棋とは違ったルールや条件があります。
最も大きな相違は、常にチェックしなくてもよいという点でしょうか。ほかにもセルフメイト(相手に勝たせる)やステイルメイト(引き分け)を狙うなど、詰将棋とは異なるルールも楽しめます(※)。
パズルの話はこれくらいにして、次は書誌やパロディの面について触れましょう。
スマリヤンによると、元々はアラビアンナイトの世界での物語にチェスプロブレムを組み込んでいたそうです。しかし、そこに上手く嵌まらないものもあったため二冊に分け、一方を『シャーロック・ホームズ』にしたとのこと。
つまり、本来は『アラビアン・ナイト』の方が先に刊行されるべきだったようです。なぜ出版が逆になったのかは分かりませんが、『シャーロック・ホームズ』の作中では『アラビアン・ナイト』は既に刊行された書籍として登場します。
原書は、二冊が二年の間を置いて発行されましたが、日本では続編が出るまで二十年以上かかってしまいました。それだけ時間が空くと、古い方は当然絶版になるため、二冊揃えるのが難しくなります。出版社も違うため、続編の刊行に合わせて、復刊されることもありませんでした。
『シャーロック・ホームズ』は、ジョン・H・ワトソンを語り手である点、ホームズの名推理が楽しめる点が本家と同じです。
ミステリーの読者は、現場の状況を観察し、謎を解くための条件を与えられ、犯人や凶器や動機を導き出しますが、レトロはそれによく似ています。勿論、鮮やかに謎を解く名探偵とも非常に相性がよいのです。
スマリヤンもそれを十分理解しているので、『アラビアン・ナイト』と比較しても、物語部分が長く、設定も凝っています(マイクロフトやモリアーティも思い出のなかに登場する)。パズルを早々に諦めたとしても十分面白い名著といえるでしょう。
なお、こちらが先に発行されただけあって、初心者向けに、順を追って様々なパターンを丁寧に説明してくれています。そのおかげで、自然とコツが身につきます。
チェスプロブレムだけでなく、論理パズルやジョークのような問題も含まれていますし、問題もちょうどよい難易度で、僕のレベルでもほとんどを解くことができます。
一方、『アラビアン・ナイト』は、簡単な説明の後、いきなり難しい問題が出題されます。解説を何度も読み返さないと理解できないものも多く、がっつりパズルに没頭したい上級者向けといえます。
尤も『シャーロック・ホームズ』を読み終えていれば、さほど手こずらずに解けるかも知れません。実際、終盤に至る頃には解説を読まなくても、すべての展開を推理できるようになります。そういう意味でも、こちらは後で読まれることをお勧めします。
『アラビアン・ナイト』は、主人公がアッバース朝のカリフであるハールーン・アル=ラシードです。それ以外の人物は架空なのか、クイーンがアメリア(実際の正妃はズバイダ)だったり、宰相がアーチバルド(実際はヤフヤー・イブン=ハーリド)だったりします。
また、ハールーンも『千夜一夜物語』に登場しますが、そちらのメインのキャラクターであるシェヘラザードやドニアザード、シャハリヤール、はたまたアラジンやアリババなどは出てこないため、パロディとしての面白味はほとんどありません。
ところで、『シャーロック・ホームズ』の訳者は野崎昭弘です。
僕は中学生の頃、彼の『詭弁論理学』(1976)と『逆説論理学』(1980)を読んでロジックパズルの面白さを知りました。
同じ時期に刊行されたスマリヤンの名著も、約四十年のときを経てようやく翻訳されましたので、僕と同じような体験をした方にぜひお勧めしたいと思います。
※:詰将棋は「未来」を知るため、規則上あり得ない配置や条件が認められる。それに対して、詰チェスは「過去」を探るため、そこに至る経緯が重視される。例えば、キャスリングやアンパッサンが可能かどうかも見極める必要があるのだ。従って、「何手で詰めることができる」と証明できても、具体的な手を示せないパラドックスのような詰チェスもある。
『シャーロック・ホームズのチェスミステリー』野崎昭弘訳、毎日コミュニケーションズ、一九九八
『アラビアン・ナイトのチェスミステリー −スマリヤンの逆向き解析問題集』川辺治之訳、共立出版、二〇一九
→『パズルランドのアリス』レイモンド・スマリヤン
シャーロック・ホームズ関連
→『シャーロック・ホームズ異聞』山本周五郎
→「名探偵ハリー・ディクソン」ジャン・レイ
→『名探偵オルメス』ピエール・アンリ・カミ
→「エノーラ・ホームズの事件簿」ナンシー・スプリンガー
『千夜一夜物語』関連
→『エバ・ルーナ』『エバ・ルーナのお話』イサベル・アジェンデ
→『夜物語』パウル・ビーヘル
→『シェヘラザードの憂愁』ナギーブ・マフフーズ
→『船乗りサムボディ最後の船旅』ジョン・バース
→『シンドバッドの海へ』ティム・セヴェリン
→『サラゴサ手稿』ヤン・ポトツキ
→『アラビアン・ナイトメア』ロバート・アーウィン
→『宰相の二番目の娘』ロバート・F・ヤング
「ロジックパズル」関連
→『カンタベリー・パズル』H・E・デュードニー
→『パズルランドのアリス』レイモンド・スマリヤン