読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『トコ博士の性実験』マルコ・ヴァッシー

Mind Blower(1972)Marco Vassi

 マルコ・ヴァッシーは、ポルノグラフィを中心に執筆した作家です。といっても、単なる官能小説家ではなく、実験的な作品が多いため、ヘンリー・ミラーと比較されることが多い……と書くと、不吉な予感がする方もいらっしゃるでしょう。「エロは純粋にエロであるべきで、そこに芸術性や革新性なんてものを持ち込むと大抵失敗する」と……。
 そう主張したい気持ちは十分に分かります。男が官能小説を読む目的はある程度限られているため、それと直接結びつかないものは邪魔になることが多いのです。

 ヴァッシーも勿論、そんなことは承知しています。だからこそ、ポルノ小説の出版社が舞台の『悪魔の精液は冷たい(女編集長)』(1976)で、ポルノを古典と同様、大学で研究されるような文学にすることを目指している女編集長と、男性の中心を固くすればよいと考えている社長との確執を描いたのでしょう(※)。
 編集長の目指す社会的リアリズムのポルノは成立しないとされますが、ヴァッシーの小説は、ひょっとすると文学性と性的興奮の両者を備えた稀有な例といえるかも知れません。

 例えば、『女記者』(1977)は、二十七歳の女性ジャーナリストであるコンスタンスが国際的な女性誘拐組織を追ううちに、自らが捕らえられ性奴隷にされるという話です。
 普通のエンタメ小説であれば、軟禁状態から抜け出し、組織の秘密を暴くというストーリーになるでしょうし、ただのポルノなら、初めは抵抗していた主人公が次第にアブノーマルなセックスに溺れてゆく様を描くでしょう。
 ところが、ヴァッシーはポルノを期待する読者の欲求を満たしつつ、「指示に従い定期的に客の要望に応えれば、高級リゾートで何不自由ない暮らしが保証される、しかし決して脱出はできない」という境遇を受け入れるか否かを主人公と読者に問うのです。セックスや自由と引き換えに安定した生活を得るのは、玉の輿に乗ることと大差がないわけで、女性の欲とプライドが葛藤する様が見事に描かれます。
 さらに、より安全なスタッフの地位に上り詰めたコンスタンスは、ようやく助けがきたとき、最早、諸民の生活には戻れない体になっていました。ジャーナリストとしての使命はどこへやらといった感じですが、崇高な志も、セックスや権力を前にすると、いとも容易く消し飛んでしまうといいたいのでしょう。

 そんなヴァッシーの小説のなかでも、取り分け実験的なのが『トコ博士の性実験』(写真)です。
 この作品は、インド生まれの覚者ジッドゥ・クリシュナムルティと、『魔術師』の作者であるジョン・ファウルズに捧げられています。つまり、トコ博士のモデルは、クリシュナムルティと『魔術師』のモーリス・コンヒスであることが分かります。

 性の探求者であるマイケルは、イザドア・トコ博士の研究所ISM(Institute for Sexual Metatheater)に雇われます。
 トコ博士の指示に従い、マイケルはありとあらゆるアブノーマルなセックスを経験します。
 複数の男に犯されたり、少女ふたりと性行為をさせられたり(挿入は禁止)、好きな女性が輪姦されるのをみせられたり、コンピュータとセックスしたり……。

 トコ博士は「セックスにおいて、体はすぐに飽きてしまう。大切なのは想像力だ」という理念を持っています。例えば、恋人との情事の最中に、好きなアイドルを思い浮かべるといったことは、誰もがしているでしょう。
 しかし、「実際の行為中にセックスについて考えれば、きみの神経や注意力は分散され、結局は行為も思考も不満足に終わってしまう」といいます。

 そこで大切になるのは、まるで妄想が実現したかのようなセックスを繰り返し経験することです。そうすれば、「現実を忘れ、現実から逃避するために、ファンタジーの世界にどっぷりつかるという能力を失」い、実際のセックスにおいて「肉体」と「妄想」両方の気持ちよさを獲得できるのです(ここまで読んで、アホらしいと感じた方は、遠慮なくお帰りください……)。

 さらに、パートナーと感情をシンクロさせ、文字どおり心と体を一体化させることが究極のセックスとトコ博士は考えます。
 博士の教育の甲斐あって、ついにマイケルは男女二対二の4Pの最中に覚醒し、絶頂の極みに達します。これが成功したのであれば、もっと大人数でも可能であり、やがては全人類がセックスによってひとつになることもできるわけです!

 ま、そこまでスケールを広げると、ポルノの範疇を逸脱してしまうと思ったのか、ヴァッシーはあっさりと幕を閉じてしまいます。
 それを、もの足りないと感じるか、エロ小説らしくてちょうどよいと感じるかは読者次第でしょう。

 なお、トコ博士は、ほかにも露出や出歯亀、SM、嫉妬、レイプ、ドラッグなどが性的快感に与える影響について実験しています。
 なかでも凄いのは、五十年も前の作品にもかかわらず、コンピュータと人間のセックスを描いている点です。
 コンピュータは人工の腟やペニスで人間と交わり、セックス中の心拍、血圧、体温、筋肉の緊張度、身振り、表情、四肢の角度、速度などを記録して分析します。
 尤も、その結果が、怪しい占いみたいになってしまうのがこの時代の限界という気はしますけれど……。

※:『悪魔の精液は冷たい』は、作中のポルノ小説のタイトルを指す。エロと芸術の両立のほかにも、男性と女性でポルノの捉え方に違いがあることなどを真面目に議論するメタポルノなので、興味がある人はぜひ。

『トコ博士の性実験』小鷹信光訳、富士見ロマン文庫、一九七九

富士見ロマン文庫
→『オプス・ピストルムヘンリー・ミラー
→『鏡の国のアリスモリー・フルート

Amazonで『トコ博士の性実験』の価格をチェックする。