Through the Looking Glass(1976)Molly Flute
この本の原題は『Through the Looking Glass』。そう、かの有名なルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』と同じです。
しかし、共通するのはそれだけ。アリスという名の人物も登場しなければ、ワンダーランドを旅するわけでもない、単に自己愛を扱ったポルノグラフィなのです。
にもかかわらず、『鏡の国のアリス』という邦題をつけてしまうのは、いかがなものでしょう(※1)。
リチャード・マシスンの「The Disinheritors」を「不思議の森のアリス」とするのは分からなくもないですが、こっちは納得がいきません(広瀬正の『鏡の国のアリス』も、ちとややこしいので別のタイトルにした方がよかった気がする)。
アリスのポルノ版と勘違いした大人はまあよいとして、読書感想文を書こうと本屋に走った小学生が間違って購入してしまうケースを考えなかったのかしらん(カバーイラストを描いている金子國義は、キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』も手掛けているので余計ややこしい。写真)。
この本の発行当時、小学生だった僕は、残念ながら幸い引っ掛からずに済みましたが、期待して頁を開いたいたいけな少年少女の目の前に、めくるめく官能の世界が広がってしまったことを考えると胸が痛みます。
なお、『鏡の国のアリス』は、同名映画のノベライズです。
とはいえ、映画は日本未公開。自由な邦題がつけられたのはそのせいもあるのでしょう。
作者のモリー・フルートは「バイオニック・ジェミー(The Bionic Woman)」シリーズのスピンオフ小説を書いたアイリーン・ロットマン(Eileen Lottman)の別名です。
彼女はさらに、マイク・コーガン(Mike Cogan)のペンネームで『トップガン』『ブラック・レイン』『プレシディオの男たち』のノベライズも書いています(※2)。
複数のペンネームを駆使して、SFからポルノまでこなす、いわばノベライズ職人といったところでしょうか。
本題に入る前にもう少し脱線して、「富士見ロマン文庫」の話を……。
富士見ロマン文庫は一九七七年七月に創刊されました。初回配本は五冊で、その後、月に一冊のペースで刊行されてゆきます。文庫の売れゆきは相当よかったそうで、十四年間で計百三十三冊が発行されました。
熱心なコレクターが多いことから「性愛小説界のサンリオSF文庫」とも呼ばれています(誰が呼んでいる? 要出典)。
僕の所持している『鏡の国のアリス』には、当時のチラシが挟まっており(写真)、そこに書かれている「特色」という宣伝文が面白いので、以下に引用してみます(ちなみに『新潮現代国語辞典』のパンフレットはこちら)。
・欧米各国で話題のエロチック・ノベルが、ホットなフィーリングをただよわせて次々に登場します。
・しびれるような性の世界が、それでいて、健康ないのちへの賛歌が、あなたの心をゆさぶらずにはおきません。
・名うての訳者陣が、それをナウな感覚と鋭敏な触覚で正確にとらえ、みずみずしい感動をあなたにプレゼントします。
・なによりも、知的でファッショナブルな装いが、あなたを魅了します。
何をいってるかよく分かりませんが、金子がイラストを描き装幀した富士見ロマン文庫が思わずコレクションしたくなるほど美しかったことは真実です。カバーも素晴らしいのですが、黒地に金文字の表紙も格好よかった(以前取り上げたヘンリー・ミラーの『オプス・ピストルム』は池田満寿夫なので、カバーは白が基調になっている)。
閑話休題。『鏡の国のアリス』のあらすじは、以下のとおりです。
町の人から「ビッグ」と呼ばれ敬われているトム・ジョンストン。美貌の妻が姿を消し、それに代わるようにして娘のキャサリンが人も羨む美女へと成長します。キャサリンは結婚をし、娘を産みますが、トムはこの世を去ってしまいます。
キャサリンは夫とのセックスに満足できず、鏡に自分の姿を写しながらマスターベーションをするのが密かな愉しみになっています。ある日、鏡のなかからもうひとりの自分が出てくるという幻想を抱き、次第にエロティックな妄想に苛まれるようになります。
やがて、鏡のなかに死んだ父が現れ、こっちへこいと誘うのですが……。
ポルノで「鏡」とくれば、ナルシシズムと相場は決まっています。
美しすぎるが故に、一本のしわにさえ恐々とするキャサリン。父は世間体を気にし、娘を無理矢理結婚させましたが、キャサリンを満足させられる男などいないことを承知しています。ですから、鏡に向かって自分自身を慰めろというのです。
勿論、それだけではキャサリンも読者も十分な満足が得られるはずはなく、妄想のなかでの乱交などへ展開します。
とはいえ、時代のせいか、作者が女性だからか、「今時、この描写じゃ中学生でも興奮しないよなー」と思われるほどソフトです。
どちらかというと、官能小説ではなく、性を対象とした文学(性愛文学)といえるでしょうか。そのため、ポルノを敬遠している方でも興味深く読めるはずです。
さて、自己愛だけだと話が広がりませんので、逞しくカリスマ性のある父親に魅かれるというエレクトラコンプレックスも加わります。
ジークムント・フロイトによると、男児のエディプスコンプレックスの場合、母親を犯し、父親を殺そうとしますが、去勢コンプレックスによって、それらの欲望がなくなるそうです。
しかし、女児は、ペニスのない母親を憎み、ペニスを持つ父親に憧れるようになる。これがナルシシズムからエレクトラコンプレックス(この用語はカール・ユングによる)への移行で、男児と異なりいつまでも崩壊することがないとか。
難しい話はともかくとして、幼い頃、行方不明になった母がどこへ消えたのか、また、その当時の自分と同じ歳になった娘のジェニファーと夫との怪しい関係に気づいた辺りから、キャサリンの精神はおかしくなります。そして、ついに鏡の向こうの世界へ赴くのですが……。
ラストは、かなり不気味です。エロティックファンタジーと書かれていますが、寧ろエロティックホラーという感じですので、ペニスまで緑色の悪魔に犯されるのがお好きな方は、ぜひどうぞ。
※1:カジノ=リブモンテーニュの『ポルの王子さま』の原題は『Le petit prince』で、『星の王子さま』と同じ(勿論、ジョークで、日本人によって書かれたエロティックなパロディである)。
※2:ほかにも複数のペンネームを持つが、そちらでの邦訳はない。
『鏡の国のアリス ―エロティックファンタジー』泉真也訳、富士見ロマン文庫、一九七七
富士見ロマン文庫
→『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー
→『トコ博士の性実験』マルコ・ヴァッシー