Survivor(1999)Chuck Palahniuk
前回、初めて映画のノベライズを扱いましたが、基本的に僕はノベライズなどには手を出しません。別に軽視しているわけではなく、存在意義がよく分からないからです(メディアミックスやスピンオフなどは除く)。
「映像では描けなかった内面を描写する」「説明不足だった点を補う」といった利点を一応はあげられますが、そんなことをしなければいけない映画は、その時点で失敗作といえるのではないでしょうか。
ただし、監督自身が書いた(例:サミュエル・フラーの『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』、フランソワ・オゾンの『スイミング・プール』)、名の知れた作家が書いた(例:ロバート・ブロックの『トワイライトゾーン』、オースン・スコット・カードの『アビス』)、映画が日本未公開(例:モリー・フルートの『鏡の国のアリス』)、文学的意図がある(例:アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』、村上龍の『ストレイト・ストーリー』)といった場合は、ノベライズを読むことがあります。
逆に、映画と結末を変えただけなんてのは商業的すぎて嫌らしいので、無視しますが……。
そもそも、フィクションに小説と映画がある場合、僕は小説を優先します。
原作の小説を既に読んでいる場合、映画は滅多にみませんし、小説の翻訳と映画の公開がほぼ同時期の場合は小説を選ぶことが多い。
それは、小説を読むのが何より好きだからです。小説を中心に考えた場合、映画は読書で得られる喜びを確実に減らすものでしかなく、それにわざわざお金を払う気がしないのです(※1)。
反対に、小説を読むのは時間の無駄だという人がいます。
「話題の文芸は、ほぼ確実に映画化ないしドラマ化されるので、それをみれば時間の節約になる。一冊読む間に、映画なら何本もみられる」というのが論旨ですが、これは文学を味わうつもりなどさらさらない、単に筋だけ楽しめればよいと考えている人でしょうね。
さて、チャック・パラニュークの名前に馴染みがない方でも、映画『ファイト・クラブ』の原作者といえば「知ってる、知ってる」となるでしょう。
それくらい、映画は有名なのですが、僕は今に至るまで小説しか読んでいません。当時、映画公開に合わせて文庫化されたので、迷わず小説を選びました。
映画をみていない者からすると、これをどのように映像化したのか、いや、観客から文句が出なかったのか非常に不思議です。
近頃、「驚愕の結末」なんて謳い文句の映画をみると、オチにこだわる余り、虚構内で不自然すぎる行動になったり、観客を驚かせる以外そんなことをする意味がなかったりするものが多くて辟易しています。この映画もその可能性があるので、いまだ鑑賞する気になれないのです。
実は、『サバイバー』(写真)も映画化の話があったそうです。『ファイト・クラブ』と異なり、映像化するに際して障害はなさそうですけれど、こちらはアメリカ同時多発テロ事件の影響でお流れになったとか(※2)。
しかし、小説としては『サバイバー』の方が圧倒的に優れていると僕は思います。いや、俗ないい方をすると、「分かりやすいものを書いて、読者受けを狙った」となるかも知れません。
というのも、パラニュークの処女作『ファイト・クラブ』は大して話題にならず、注目されたのは映画化された後であり、『サバイバー』の刊行時点では単なるマイナーな新人作家に過ぎなかったからです。多くの読者を獲得するために、方向を若干修正したとしても不自然ではありません。
真相はともかく、エンターテインメント寄りになったことは間違いなく、小難しいことを抜きにして楽しめる作品に仕上がっています。
カルト教団クリード教会のコミュニティで生まれ育ったテンダー・ブランソン。家族を含む信者たちが集団自殺をしてから十年ほど経ち、テンダーはとうとう教団の最後の生き残り(サバイバー)になってしまいます。
自殺願望を持ったテンダーでしたが、ニューヨークのエージェントに祭り上げられ、また予知能力のある少女ファーティリティの助けもあって救世主として全米中に注目されるようになります。
そこへ、死んだはずの双子の兄アダムが現れ……。
『ファイト・クラブ』と同様、暴力によって自らを破壊しようとする者たちの物語です。『ファイト・クラブ』がビルの爆破を目論むのに対して、『サバイバー』の主人公は旅客機をハイジャックします。
大きく異なるのは、ハイジャックが成功したシーンを一番最初に持ってきたこと。テンダーは、パイロットをパラシュートで飛行機から降ろし、自動操縦に切り換えた後、燃料切れまでの間にコクピットのボイスレコーダーに向かって自らの半生を物語るというのが枠組みです(勿論、吃驚するオチが用意されている)。
そのため、この本は、47章(427頁)から始まり、1章(1頁)で終わるという仕掛けがしてあります。尤も、過去の記述は一直線で、『インヴィジブル・モンスター』のように、あっちこっちに飛ぶややこしさはありません。
また、テンダーと双子の兄アダムとの裏表の関係は、『ファイト・クラブ』の「ぼく」とタイラーに似ています。
アダムは、カルトの集団自殺の原因を作り、その後も教団の生き残りを次々に殺した殺人鬼です。
他方、テンダーは、自死に取り憑かれています。例えば、新聞に掲載された緊急相談センターの電話番号が間違っていて、彼の自宅に死にたい人々から次々に電話がかかってくると、テンダーは助けるどころか自殺への後押しをするのです。
表現は異なれど、テンダーもアダムも根は同じ。実際、最後にふたりの立場はひっくり返り、死にたがるアダムのとどめをテンダーが刺します。
といって、そこに猟奇的な匂いはなく、死はごく軽く扱われる。要するに、テンダーらクリード教会の信者にとって、自殺も殺人も極めて身近なものなのです。
一方で、抑圧されているのは性です。
教団の子どもたちは、長老たちによってセックスは邪悪で恐ろしいものという考えを持たされます(出産があるたび、その一部始終をみせる)。そのため、テンダーは未だに童貞で、それどころか放っておけば一生セックスなどしないでしょう。
普通の人にとって、セックスは近くて気持ちよく、死は遠くて不気味な存在ですが、テンダーはまるで反対の感覚を持っています。
そう考えると、テンダーが死を望むのは、愛を求めるのと等しいのかも知れません。そうすることでしか、生きる意味を見出せなかったという逆説が哀れを誘います。
運よく死ぬよりも先にセックスを経験し、それによって死への衝動は収まったかと思いきや、テンダーはとんでもない行動を取らされる羽目になります(ネタバレになるので具体的には書かない)。
そして、それこそが真の通過儀礼なのでしょう。死の淵から生還して初めてテンダーは本当の自由を手にし、自分の力で生きてゆくことができます。
かなり歪な形とはいえ、『サバイバー』は紛れもなく希望と再生の物語なのです。
追記:二〇二二年一月、新版が刊行されました。
※1:飽くまで、小説を中心にした場合の話である。オリジナル脚本の映画や、原作を読む気のないエンターテインメント系の映画なら好んでみる。
小説を読んだ後、映画をみる気がしないのは単に退屈だから。ただし、好きな監督の場合は小説を読んでいても映画をみる。
古典や名作など先に映画をみてしまった場合は、忘れた頃に原作を読むようにしている。
※2:その後、『チョーク!』は二〇〇八年に映画化され、『セックス・クラブ』という明らかに『ファイト・クラブ』にあやかろうとする邦題がつけられた(劇場未公開)。小説は二〇〇四年に翻訳された(カバー写真はかなりきわどい)。
『サバイバー』池田真紀子訳、ハヤカワ文庫、二〇〇五
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