読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー

Opus Pistorum(1941)Henry Miller

 一九七〇年代の終わりから一九八〇年代にかけて存在した富士見ロマン文庫は、熱狂的な信奉者が多く、蒐集の対象にもなっていることなどから、差し詰め「性愛小説界のサンリオSF文庫」といえるでしょうか。
 なんて、偉そうなことをいうほど、この文庫のことを知っているわけではありません。当時十代だった僕は、気にはなっていたものの手に取る勇気がなく、実際に購入したのはヘンリー・ミラーアナイス・ニン、その他少々でした。
 要するに、ミラーなら猥褻ではなく文学だと主張したかったんでしょうね。本屋のおっさんにそれを訴えても仕様がないんですけど……。

 富士見ロマン文庫の挿画といえば金子國義を思い浮かべる方が多いと思いますが、『オプス・ピストルム』のカバーイラストは池田満寿夫です(写真)。
 帯には「レイプ、オージー、幼女姦とアメリカ青年がパリで繰り広げる大らかな性(セックス)讃歌」と書かれていますが、オージー(orgy:乱交)はともかく、レイプと幼女姦を「大らか」と表現してよいのかどうか……。今なら、多分、何かに引っ掛かるでしょう。

 さて、解説によると、この小説は無名時代のミラーが、匿名で書いたポルノグラフィーだそうです(一ページ一ドルの原稿料で、ポルノ愛好家に売っていた)。長く埋もれたままでしたが一九八三年になって発見されました。ミラーの作品だと分かったのは、そのタイトルからでした。「Opus Pistorum」というのはラテン語で、英訳すると「Work of the Miller(粉屋の仕事=ミラーの仕事)」となるんだとか。

 中身の方はというと、とにかくアブノーマルな性行為が満載ですが、ドロドロした雰囲気は一切なく、底抜けに明るいのが印象的です。いわば「飽くなき性の探求者ども」といった感じでしょうか(そういう意味では、帯の「大らか」は間違っていない)。
 筋らしい筋がない点は『北回帰線』と共通していますが、官能小説の多くは、セックスに至るまでのプロセスに枚数を割きませんから、ある意味、典型的といえます。

 また、ポルノは、やることにほとんど変化がない(ぶっちゃけ、入れたり出したりするだけ)ため、つい表現や専門用語に凝ってしまいたくなります。ですが、度が過ぎると、わけが分からなくなり、似非芸術に近づいてゆきます。
 ミラーは、そこんところは心得ていて、原稿の買い手が満足するよう、文学者としての矜持を捨て、エロに徹しています。例えば「(アンナが)親しい友人たちにむかってあばずれのように振る舞うことは、まったくの赤の他人に対してそうするよりもひどいことのように私には思えるのだ」としながら、彼女の内面には全く踏み込まず、「ま、勝手にするがいい」と処理してしまうなんて、潔いというか、適当というか……。
 ま、そんな感じで、あの手この手を駆使し、四百頁を飽きさせないのは、なるほどセックスの奴隷だけあります。後半はさすがに息切れして、性描写が減るものの、文章や絵に代わって映像が主流となった今読んでも、十分満足できるのではないでしょうか。

 勿論、だからといって、「『オプス・ピストルム』は、『北回帰線』や『南回帰線』を凌ぐ作品だ!」などというつもりはありません。明らかに技巧に乏しく、完成度の低いやっつけ仕事であり、何より熱意や野心がまるで感じられないからです。
 ただし、『オプス・ピストルム』が名作となり得なかったのは、金のために書いたからでも、情熱や技術を注がなかったからでもなく、読者と目的がはっきりしすぎていたからではないか、という気がして仕様がありません。
 ミラーには、タイプライターの向こうに涎を垂らすエロ親父の姿がみえていて「奴らを満足させるために、えげつないことを書いてやろう」とほくそ笑んでいたのでしょうが、そんな打算的な男にミューズが微笑むはずないのです。

 結局のところ、文学というのは、特定の誰かを対象にしてはいけないのかも知れません。
「こんなもん、何のために、誰に向けて書いたんだよ!」と突っ込みたくなるようなものこそが、結果的に長い命を持つ、といったら乱暴でしょうか。

『オプス・ピストルム ―'30年代パリの性的自画像』田村隆一訳、富士見ロマン文庫、一九八四

富士見ロマン文庫
→『鏡の国のアリスモリー・フルート
→『トコ博士の性実験』マルコ・ヴァッシー

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