読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『したい気分』エルフリーデ・イェリネク

Lust(1989)Elfriede Jelinek

 エルフリーデ・イェリネクは、二〇〇四年にノーベル文学賞を受賞しています。しかし、我が国ではほとんど話題になりませんでした。それどころか、「ポルノグラフィだ」と公然と批難する人までいて、何となく読まずにやり過ごしてしまった人も多いのではないでしょうか。

 僕は、映画化もされた『ピアニスト』(1983)と『したい気分』(写真)を読みましたが、一筋縄ではゆかない作家という印象を強く持ちました。
『ピアニスト』は、「訳者あとがき」に「ポストモダンの特徴が色濃く刻印されている凝った長編小説」とある通り、冒頭から異様な文章がただならぬ雰囲気で連射されます(勿論、褒めている)。
 少なくとも、これをポルノとしか思えない人は、本当に文学者なのかと首を捻らざるを得ません。というか、こんな難解な小説をポルノとして読む人なんか絶対いないとは思わないのでしょうか。
 ペーター・ヴァイスの「ミクロロマーン」ほどではないけれど相当に微細な描写、「意識の流れ」を用いた心理描写は、それが脱構築であるか否かにかかわらず、ほとんど物語を必要としない域に達しています。

『ピアニスト』はミヒャエル・ハネケ監督の映画も鑑賞しました。
 設定は多少異なりますが、原作に忠実に映画化してあり、「母親の過干渉のせいで抑圧された独身女性の異常な性癖」「女性による男性の支配」といった肝も押さえています。しかし、映画では父親のことがほとんど語られず、エリカがカミソリで性器を傷つける理由も分かりません。
 何より小説は、重層な構造や膨大な文学的遊びが楽しめます。最近、改訳版が出たそうなので、ぜひ読んでみてください(僕が持っているのは旧版)。

 イェリネクが一部の人に嫌われるのは、性をあからさまに描くこと以外にも理由がありそうです。
 彼女は過去に共産党に入党しており、オーストリア政府やカトリック教会(オーストリア人の三分の一はカトリック)を批判しています。
 さらに、イェリネクはユダヤ人の血を引いており、親戚の多くがナチスの犠牲になりました。ドイツ統治下のオーストリアカトリック教会がナチスに順応しようとしたことを許せず、様々な作品で形にしています。
 権力に妄信的にしがみつく人は、イェリネクのような活動を面白く思わないのではないでしょうか。

 とはいえ、『したい気分』は、ドイツでベストセラーになったそうなので、一般的な評価や人気は決して低くはありません。
 尤も、日本であれば、この小説が売れるなんてとても考えられないでしょう。
 ポルノとされる作品が人口に膾炙することが不思議なのではなく、『ピアニスト』よりも遥かに難物な小説が広く読まれることが驚きなのです。あらすじは、ほとんど意味をなしませんが、一応、以下のような感じです。

 スキーリゾートで有名な土地で製紙会社を経営する夫(所長)、妻、幼い息子の家族。夫は、妻の意思を無視して、自分勝手なセックスで満足しています。
 妻は、若い男と浮気をしますが、夫にバレてしまいます。夫は、若い男に会いにゆく妻を追いかけ、車のなかで妻を犯します。

 前半はひたすら夫婦間のセックスシーンが続きますが、行為を直接描写するのではなく、膨大な量の比喩が用いられます。よくぞこれだけ多彩な表現ができると感心してしまいます。
 セックスといっても、夫(所長)が妻の体を用いて、一方的に欲望を満たすだけで、夫婦間の愛情はほとんど感じられません。時間も場所も弁えず、子どもに睡眠薬を飲ませてまで妻の体を求める様は、エロティックというより醜悪です。
 地元の名士である夫は、権力の象徴である屹立したペニスで襲い掛かってきます。妻は、女どもの憧れである所長の妻の座を守るために夫に抵抗できません。
 ふたりの姿をみて育つ息子は、やがて夫そっくりになり、精神的に母親を犯すでしょう(だからこそ、ラストで、母はある決断をしたのかも知れない)。

 彼らの名前をはじめとした固有名詞はしばらく表記されず、「所長」「女性(Die Frau)」「息子」という代名詞を用いての描写が続きます。
 名前どころか、登場人物の年齢、経歴、容姿などもほとんど描かれないため、感情移入するのは非常に困難です。読者は、「夫」や「女」といった記号を用いて形成された典型的な男性優位の家族として捉えることになるでしょう。

 妻の名がゲルティであることが分かるのは日本版で六十六頁になってからです。なお、夫ヘルマンの名は十九頁、ゲルティの浮気相手である青年ミヒャエルの名は百二十六頁が初出です。
 名前が明らかになったからといってキャラクターに血が通うわけではありません。『ピアニスト』同様、会話は一切ないし(※)、恋愛感情も乏しく、ひたすら性行為が繰り返されます。
 若い男は、背徳的な快楽を得る目的とともに、権力者の妻を寝取ったという満足をも覚えています。しかし、夫は、何者かが妻に侵入したことにすぐ気づきます。
 現実でも、フィクションでも、配偶者の不義に気づくのは相手の態度や行動の変化だったりしますが、何と、この小説では夫が妻のヴァギナを調べて不倫が発覚するのです。

 このように、妻を取り巻く三人の男はいずれも女を性欲、支配欲、名誉欲などを満たすための道具として扱っており、イェリネクはそれを膨大な言葉遊びを用いて戯画化しているといえます。

 イェリネクは『したい気分』の執筆に二年をかけ、訳者は翻訳に五年をかけたそうです。フィリップ・ソレルスの『』ほどではないにしろ、翻訳者泣かせの小説であることは間違いないでしょう。
 読者としても、ストーリーを楽しむことはできませんし、登場人物に感情移入することもできないため、場合によっては辛い読書になるかも知れません。

 イェリネクが、なぜこのような実験的な手法をとったのかは分かりませんが、旧態依然としたジェンダーやセックスの概念をぶち壊すためには、古めかしい小説作法では駄目という気はします。
 少なくとも、これまでにない性行為の描写によって、快楽を貪る男の醜さや滑稽さ、女の打算や見栄、それを取り巻く社会構造の歪さは十分すぎるほど伝わってきます。

 それにしても、相当な教養の高さが求められる小説に、ポルノの皮を被せて売り、読者もそれに応えるというドイツやオーストリアが羨ましい。
 思想的にも文学的にも尖った小説をまるごと飲み込むことが文化的成熟といえるのかは分かりませんが、読む前から「難解だから」という理由で敬遠してしまう人が大多数となるようでは先が思いやられます。
 せめて若い方には、こうした小説に挑戦し、思う存分、頭と感性を働かせてもらいたいと切に願います。

※:『ピアニスト』も『したい気分』も、いわゆるカギカッコの会話体はないが、地の文に科白や独白は稀に入ってくる。『したい気分』は三人称に、何者か分からない一人称が混じっていて、読者に語りかけてきたりもする。

『したい気分』中込啓子、リタ・ブリール訳、鳥影社、二〇〇四

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