読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『御者のからだの影/消点』ペーター・ヴァイス

Der Schatten des Körpers des Kutschers(1952)/Fluchtpunkt(1961)Peter Weiss

 僕は素人なので、つい話が俗っぽくなりますが、ペーター・ヴァイスといって真っ先に思い出すのは、やたらと長いタイトルの本があるってことです。『サド侯爵の演出のもとにシャラントン保護施設の演劇グループによって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』Die Verfolgung und Ermordung Jean Paul Marats dargestellt durch die Schauspielgruppe des Hospizes zu Charenton unter Anleitung des Herrn de Sade(帯がつくと書名がすべてみえない。写真)とか『ベトナム討論 -被抑圧者の抑圧者に対する武力闘争の必然性の実例としてのベトナムにおける長期にわたる解放戦争の前史と過程ならびに革命の基礎を根絶せんとするアメリカ合衆国の試みについての討論』Diskurs über die Vorgeschichte und den Verlauf des lang andauernden Befreiungskrieges in Viet Nam als Beispiel für die Notwendigkeit des bewaffneten Kampfes der Unterdrückten gegen ihre Unterdrücker sowie über die Versuche der Vereinigten Staaten von Amerika die Grundlagen der Revolution zu vernichtenとか、絶対に覚えられません(『ロビンソン・クルーソー』も長いが……)。
 これらは、いずれも戯曲ですが、アングラ演劇の題名に長いものが多いのは、この辺からきているのでしょうか。

 上記のタイトルからもお分かりのとおり、ヴァイスは政治色の強い作家です。彼はドイツ出身のユダヤ人にもかかわらず、国籍はチェコで、ポグロムを逃れるためイギリス、スウェーデンへ亡命したという複雑な事情があるため、嫌でも政治に無関心ではいられなかったのでしょう(併録されている『消点』は、ストックホルムで画家として立とうとした青年時代を描いた自伝的作品)。
 などと書くと、一気に興味をなくしてしまう方もいらっしゃるでしょうが、今回取り上げる『御者のからだの影』(写真)は、彼のデビュー作で、政治の匂いは全くしませんので、ご心配なく。
 ただし、出版を断られ続け、長く日の目をみなかっただけあって、前衛的で、なかなかの難物です。

 舞台は今ひとつはっきりしないのですが、寂れた下宿のようなところ。そこで暮らす人々を、作家の卵である「わたし」がこと細かく描写してゆきます。ストーリーは存在せず、特別なできごとも起こらず、思索に耽るわけでもありません。日常的な行為をひたすら追いかけるだけの作品です。
 また、その細密さは、例えば煙草を一本吸うだけで数十行費やすといった感じで、ヴァイスはこれを自ら「微細小説(ミクロロマーン)」と名づけたそうです。

 勿論、ただ細かいだけでなく、明らかな文学的意図も数多くみられます。
 食卓に集った下宿人たちをひとりずつ描写してゆく際、わたしの左隣の空席に座る(かも知れない)人物についてまで語ってみたり、耳にした途切れ途切れの会話や反響する科白を加工せずに書き連ねてみたり(当然、読者には意味不明)といった箇所がそれです。
 ほかにも、しつこいくらいの反復表現や、御者とおかみの情事を影だけで描写する(これがタイトルになっている)などがみられます。
 加えて、画家でもあるヴァイス自身によるコラージュが七点挿入されているのですが、取り立てて内容とは関係なさそうなものばかりだったりします。

 気の短い人なら「わけ分かんねえー!」と叫び出しそうな作品ですが、これは一体どんな意図を持って書かれたのでしょうか。
 その答えは、作中に用意されているので、まずはそれを引用してみます。

「わたし」は、「ものを書こうとこころみること、これはいつもきまってあらたな短い冒頭だけで中絶し、それ以上になったことはこれまでにいちどもない」人物です。
 で、彼は自らこう問いかけます。
「この見たものや聞いたものは定着するにはあまりにもつまらぬものだ、おまえはこんなふうにしておまえの時間を、おまえの夜の半分を、いやおそらくはまるまる一日を、まったくむだにすごしているのだ」
 それに対する回答は以下の如くです。
「ではおれはなにをしたらよいのだ。そしてこの問いから、わたしの行為はその他のものもやはり成果も効用もなくおわっているのだ、という洞察が展開する」

 書き手としてはそれでよいとして、読者はこの作品から何を得るべきなのでしょうか。
 少なくとも僕は、難しい理屈をつけて理解したような気になり、優越感を得たいから実験的な作品を読むのではありません(この本の帯には「若きエリートのあなたにおくる!!」という宣伝文句が書かれていて、今みると笑える。写真)。
 何といっても、そこに驚きがあるからではないかと思います。
 新しい(と、作者が信じている)ものは、読者を惹きつけ、作者の創作意欲に火をつけます。それが失敗作であろうと、その後に何かを生み出すきっかけになるかも知れません。
 いや、たとえ、どこにもつながらなかったとしても、お稽古ごとじゃあるまいし、同じようなものばかり読まされ続けるよりは、何倍もマシではありませんか。

 しかも、中年になってからデビューしたヴァイスの場合、若さや無知故の押しつけがましさも怖いもの知らず感もありません(功名心は感じられるけど)。落ち着いているというか、「いい歳して、変なことをやってるなあ」というか……。いや、勿論、褒め言葉なんですけどね。
 長編だったら退屈で読み切れないと思いますが、日本語にして五十頁程度なので、ぜひ挑戦してみてください。

『御者のからだの影/消点』ドイツの文学11、渡辺健、藤本淳雄訳、三修社、一九六六

→『サド侯爵の演出のもとにシャラントン保護施設の演劇グループによって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』ペーター・ヴァイス

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