Il Fu Mattia Pascal(1904)Luigi Pirandello
ルイジ・ピランデルロは、個人的にとても影響を受けた作家です(例えば『作者を探す六人の登場人場』は拙作『晩餐は「檻」のなかで』で取り上げさせてもらった)。
勿論、小説、戯曲ともに高い評価を得ていますから、翻訳も数多く出版されています。最近では、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の『カオス・シチリア物語』の原作となった六つの短編を含む同名の短編集も発行されました(この映画も大好きですが、今頃こんな本が出るとは思わなかった)。
『生きていたパスカル』(写真)はピランデルロの出世作で、長編小説としては最も有名ではないでしょうか。過去、何度も邦訳され『生るパスカル』『死せるパスカル』『二度死んだ男 故マッティーヤ・パスカル』など邦題も様々あります(原題に最も近いのは『故マッティーア・パスカル』)。
邦題からだと、パスカルは「生きている」のか「死んでいる」のか分かりにくいでしょうが、ドナルド・バーセルミの『死父』のように「死んでいるのに生きている」のでも、マシャード・ジ・アシスの『ブラス・クーバスの死後の回想』のように「死んでから語り手になった」のでも、フラン・オブライエンの『第三の警官』のように「死んでしまったことに気づいていない」のでも、ポール・ギャリコの『トマシーナ』のように「死んだと思っていたら死んでいなかった」のでもなく、「間違って死んだことにされた」主人公の回想録となっています。
幼い娘と母を同時に亡くしたパスカルは、家人に何も告げず失意の旅に出ます。ところが、彼の留守中、見知らぬ男の腐乱死体が発見され、それが自殺したパスカルであることにされてしまいます。意地悪な姑から解放されたいと願っていたパスカルは、そのまま自らの戸籍を抹消し、変装をし、メイスという偽名を名乗り生きてゆくことにします。
各地を気ままにさすらい、束の間の解放感に満たされますが、やがて、家族も家も友人も持てないことに悩み、偽名を用いてローマで下宿をすることにしました。しかし、そこでも、恋や盗難、決闘といったできごとがパスカルを苦しめます。
ついに、彼はメイスを殺し、パスカルに戻ることを決心します……。
ピランデルロは「自己と他者」「生と死」「内と外」といった問題を扱うことが多く、この作品も、アイデンティティ喪失をテーマにした文学の古典として読むことが可能です。
けれど、「自分とは何か」「他者とどう違うのか」といった疑問に答えてくれるというよりは、「別人として生きてみたい」という逃避願望を上手く表現しているといった方が相応しいように僕には思えました。
というのも、パスカルは、何の苦もなく別人になれてしまったことや、自分が本当は誰であろうと、あるいは生きていようと死んでいようと、多くの人にとっては何の意味を持たない、といったことに悩むのではなく、身元がバレやしないか心配したり(架空の人メイスとなったにもかかわらず、存在するはずのない従兄が現れ混乱したりする)、偽りの自分を愛する女性が現れたことに苦悩したりするからです。
それはピランデルロ自身の体験に基づいていると思われますが、だからこそ切実で、心を打つ小説に仕上がったともいえるでしょう。賛否はあるにしても、作家の身近なテーマを扱った作品は、やはりそれなりのパワーを持って生まれてくることが多いからです。
尤も、僕が似たような逃避願望を持っているせいで、余計に共感できたのかも知れませんが……。
結局のところ、人はふたつの人生を得ることは叶いません。それがどんなに不幸せであろうと、また、その逆でも同様です。名声と財産と美女を手に入れた人だって、ひょっとすると虐げられ、忌み嫌われる一生を羨望することさえあるかも知れないのです。
パスカルは、スケールこそ小さいものの、二種類の人生を体験した羨むべき存在といえるでしょう(見事、家族から解放されたことも含めて!)。
で、そうした幸運に恵まれない人は、小説を読んで我慢するしかありません……。
なお、『生きていたパスカル』は、発表当時「荒唐無稽だ」「リアリティがない」といった批判を受けたようです。そのため、一九二一年の再刊時より「空想力の周到さにかんする覚え書」という文章がつけ加えられました。
これは要するに「こんな不思議な話も本当にあり得るのさ」という証拠を作者自らが示したもので、今では考えられない話ですが、こんなところにも作者の矜持が垣間みえて面白いです。
『生きていたパスカル』米川良夫訳、福武文庫、一九八七
→『作者を探す六人の登場人物』ルイジ・ピランデルロ
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