読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『フライデーあるいは太平洋の冥界』『フライデーあるいは野生の生活』ミシェル・トゥルニエ

Vendredi ou les limbes du Pacifique(1967)/Vendredi ou la vie sauvage(1971)Michiel Tournier

 今回から数回に亘って、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に関係する小説、いわゆるロビンソナードといわれるパロディ作品群を取りあげるつもりです(※1)。

ロビンソン・クルーソー』は、小説としてみると大して面白くありませんが(そもそもデフォーの時代は、フィクションという概念がなく、またキリスト教的には嘘の話は悪とされていたため、彼はこれを虚構ではなく、実録だといい張った)、三百年もの間、読者のみならず多くの創作者を惹きつけてきたのには、それなりの理由があるように思います。
 物質文明への批判、人間の原初的な行動への興味、ひとりきりの世界における自分自身との対話、あるいは知恵を駆使して孤島で生活するエンターテインメントとして、また、最少の登場人物で読者を飽きさせない文学的工夫など、正に重要なテーマの宝庫なのです。

 なお、『ロビンソン・クルーソー』は、正確にいうと三部まであり、それぞれ別のタイトルがつけられています。一部『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719)(※2)、二部『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』(1719)、三部『ロビンソン・クルーソー反省録』(1720)で、一般的に「孤島漂着譚」として知られているのは一部のことです。
 僕が読んだのは岩波文庫版で、これは上巻が一部、下巻が二部になっています(二部は、生真面目なほら話みたいで退屈)。三部は、講談社の『世界文学全集 13』に抄訳が掲載されていますが、僕は読んだことがありません。

 一方、今回扱うミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』は、現在新本でも入手可能です。『フライデーあるいは野生の生活』の方は、かつて『新ロビンソン・クルーソー』という邦題でも出版されていましたが、いずれも今は絶版のようです(写真)。

 トゥルニエは、童話や神話を題材にすることが多いのですが、『太平洋の冥界』でもロビンソンを神話として書き直そうとしています。
 どんな手を使ったか、ざっとみてみると、まず、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』から、ぴったり百年時計を進ませます(本家ロビンソンが島に上陸したのが一六五九年九月三十日で、島を後にしたのは一六八六年十二月十九日)。その理由として、アメリカの旧植民地における奴隷貿易と、黒人の血が混じったフライデーの関係といった記述がありましたが、今一ピンときませんでした。個人的には、人類の精神の成長を表しているような気がします。
 次に、無人島に漂着したロビンソンが、野生に還った(狂気に犯された)後、文字や時間、欲望、笑いなどを次々獲得し、文明化してゆく過程を描いてゆきます。
 その後、新しい人類であるフライデーを登場させ、旧弊なロビンソンを、再び木っ端微塵に破壊してしまいます。しかし、文明化された西洋人が野蛮な未開人を支配するという図式が崩れることによって、ロビンソンは真の自由を手に入れることができました。それ故にロビンソンは、英国の船が島にやってきても、フライデーとともに島に残ることを選択するのです。
 けれども、フライデーは、ロビンソンを裏切り、自分だけ船に乗ってしまいます。無理矢理、時間の流れを意識させられたロビンソンは、老いてなお振り出しに戻ってしまったことに絶望するのですが、ラストには新たな希望の種が芽生えます。

 といった感じなのですが、今回は本の感想というより、親子ともいえる二種類の書籍が存在する意味について考えてみたいと思います。
『野生の生活』は、『太平洋の冥界』を平易に書き直したもので、ストーリーはほぼ同じです(25〜27章は新しいエピソードになっている)。トゥルニエは、よく自作の書き換えをする作家で、その意図は、より広範囲の読者に読んでもらうことにあると思います。特に児童を意識したわけではないそうですが、『野生の生活』には、年少の読者も理解できるような工夫がされています。
 子どもたちが良質な小説に触れることができるのは大変よいことです。しかし、この小説の場合は、もっと別の意味があるような気がするのです。

 それを一言でいうと「読者は、小説に何を求めるのか」になるでしょうか。
『太平洋の冥界』は、小説で哲学をしようとした作家のデビュー作だけあって、相当に気合が入っています。デフォーのロビンソンが、ひたすら経済活動に終始するのに対して、トゥルニエのロビンソンは主に航海日誌において、思索を繰り返します。「わたしはあまり哲学に溺れなかった」といいつつ、かなりのボリュームを費やし『ロビンソン・クルーソー』を哲学的に読み解いてゆくのです。
 これがトゥルニエの真骨頂ですから否定はしませんが、途中で小説を読んでいるのか、論文を読んでいるのか分からなくなることも確かです。
 他方、『野生の生活』は、小難しい哲学的考察を避け、性的な事柄や残酷な描写も少なくしていることから、子どものみならず大人も、純粋に物語を楽しむことができます。そして、そこから何を得るのかは、読者次第です。

 どちらがより優れているのか、と聞かれたら、僕は『野生の生活』に軍配をあげたいと思います。
 小説は、できるだけ易しい言葉、少ない文字数で表現するに越したことはないと考えているからです。実際、トゥルニエ自身も「『太平洋の冥界』は長すぎ、複雑すぎ、抽象的すぎる。哲学が入り込みすぎている。哲学がなくてはいけませんが、それが見えてはいけません」と語っています。
 というわけで、作品の成立とは逆になりますが、まずは『野生の生活』を読み、この寓話をさらに深く理解したいと思ったら『太平洋の冥界』を手に取ればよいのではないでしょうか。
 僕が持っている岩波書店の新装版(1996)には、ジル・ドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」という論文が併録されているので、特にお勧めです。

 なお、トゥルニエは、短編集『赤い小人』(1978)でも「ロビンソン・クルーソーの最期」という、ごく短い作品を書いています。
 英国に戻ったロビンソンとフライデー。しかし、フライデーは、やがて姿を消してしまう。ロビンソンには、彼がどこに消えたか分かった。そう。あの島へ戻っていったのだ。島を探しに再び船に乗るロビンソン。けれど、結局、島はみつからない。ロビンソンが歳を取って変わってしまったように、島もあの頃とは違ってしまったのだ。という、桃源郷みたいなお話です。

※1:変わったところではマルセル・コルスカ(Marcel Costat)の『ロビンソン物語』(Les Robinsonades)なんてのもある。これはスタニスワフ・レムの『完全な真空』(1971)で言及される架空の小説である。

※2:一部の原題は“The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe”だが、オリジナルタイトルはもっと長く、“The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner: who Lived Eight and Twenty Years, All Alone in an Un‐inhabited Island on the Coast of America, Near the Mouth of the Great River of Oroonoque; Having Been Cast on Shore by Shipwreck, Wherein All the Men Perished But Himself. With an Account how He was at Last as Strangely Deliver'd by Pirates”だそうである。


『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、岩波書店、一九九六
『フライデーあるいは野生の生活』榊原晃三訳、河出書房新社、一九九六


ロビンソン・クルーソー』関連(ロビンソナード)
→『前日島ウンベルト・エーコ
→『敵あるいはフォーJ・M・クッツェー
→『宇宙人フライデー』レックス・ゴードン
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング
→『月は地獄だ!』ジョン・W・キャンベル
→『スイスのロビンソン』ヨハン・ダビット・ウィース

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