La pasión según San Pedro Balbuena, que fue tantas veces Pedro, y que nunca pudo negar a nadie(1977)Alfredo Bryce Echenique
アルフレード・ブライス=エチェニケの『幾度もペドロ』(写真)が、ペルーの新しい文学といわれてから早五十年が経ちました。
ブライス=エチェニケは二十一世紀に入ると盗作が指摘され評価を下げましたが、『幾度もペドロ』は今読んでも新鮮です。
実験的な手法を用いているものの、テーマとしてはフリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』のペルー版といってもよい、魂の彷徨を描いた作品なのです。尤も、饒舌、下品、悪ふざけが目立つ点は『石蹴り遊び』と大きく異なりますが……。
タイトルは意味が分かりづらいのですが、そもそもペルーでは『La pasión según San Pedro Balbuena, que fue tantas veces Pedro, y que nunca pudo negar a nadie(幾度もペドロとなり、誰をも決して拒めなかった聖ペドロ・バルブエナによる受難)』という題名で出版されました。
しかし、スペインで出版された際、『Tantas veces Pedro(幾度もペドロ)』と簡略化され、邦題もそちらに合わせたそうです。
元の題名どおり、主人公のペドロ・バルブエナは、何度も受難を繰り返します。
ペドロは、いわば「バートルビー的な作家」で、作家を自称しているものの、ほぼ何も書いていません。その癖、実在する作家フリオ・ラモン=リベイロの友人で、彼の代わりにテレビに出演するなどと一端の文学者を気取っています。
フアン・ルルフォを引き合いに出すなど、明らかに書かないことに意味を見出しているので、エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』に興味を持たれた方は、ぜひ参考にしてみてください(今回はそこがメインテーマでないので、これ以上触れない)。
ペドロは、リマの街に落ちていた雑誌に載っていたソフィーという女性に心を奪われます。執念が実って巡り合うことができたものの、彼女はペドロを捨て、アメリカ人と結婚してしまいます(ペドロとソフィーは僅か三か月のつき合い)。それでもペドロは、彼女を追い求め、世界を旅しながら様々な女性と関係を持つのです。
五キログラムもある犬(マラテスタ)のブロンズ像を持ち歩き、彼とも頻繁に会話を交わします。
存在しないソフィーや、ブロンズの犬と話し合うのも奇妙ですが、時間や場所の異なる複数の場面が、一連の会話でつながるという手法も特徴的です。
例えば、AとB、AとCが別の日に、別の場所で話をするとします。
A「お金を貸してくれないか?」
B「いくら必要なんだ」
C「どうしてお金なんか借りたのよ」
A「お腹が空いていたんだから仕方ないだろう」
B「明日、返せよ」
なんて感じ。最初は戸惑うものの、慣れてくると足りない部分を補って読むようになるので、心配はいりません。
ペドロは、ソフィーのことを想いつつ、別の女性に手を出しますが、決して遊びというわけではなく、本気で惚れます。
ひとり目のヴァージニアは、バークレーで知り合ったアメリカ人(アイルランド系の移民)です。
パリに連れてくるものの、ヴァージニアはメキシコへ逃げてしまいます。ペドロは彼女を追ってメキシコへ向かいますが、あっさりと捨てられてしまいます。
上流階級の出身で裕福なペドロに対し、ヴァージニアはボロの服を着て、わざわざメキシコの貧民街で暮らすような女性です。さらに、自立心が旺盛なヤンキー気質故、親の金で遊んで暮らすペドロを快く思っていなかったのです。
ソフィーと別れたペドロはパリに戻ります。
そして、その直後に、五歳の娘と四歳の息子を持つクロディーヌと知り合います。クロディーヌの子どもはふたりとも親が違い、そのひとりクロードとその恋人のセリーヌ(クロードの子でない娘がいる)とはいまだにつき合いがあります。
そういったややこしい関係に巻き込まれるペドロは、クロディーヌの自由すぎる生き方に惹かれるものの、彼女の気持ちが未だにクロードに向いていることを思い知らされます。
やがて、クリスマスイヴの大冒険を経て、ペドロはクロディーヌと別れ、パリに戻ることにするのです。
またまたその直後、ペドロは地下鉄で、サンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」のような美少女ベアトリスと再会します。彼女は少女時代にペドロと愛し合っていましたが、突然姿をくらましてしまったのです。
若気の至りを後悔したベアトリスは、ペドロと同棲するため、彼のアパートへやってくるものの、そのとき、運悪くクロディーヌが部屋にいました。
彼女に、ソフィーと勘違いされたベアトリスは、ペドロが避妊具を買いにいっている隙に、置き手紙をして再び去ってゆくのです。
最終章、ペルージアに向かったペドロは、そこで念願のソフィーと再会します。
けれども、ようやく憧れの人に会ったのに、ペドロは相も変わらず、イギリスやカナダやブラジルの女性の尻を追っかけ回しています……。
この小説は、恋愛を通じてペドロが成長してゆくビルドゥングスロマンです。タイトルにある「聖」の要素は皆無で、寧ろ俗の塊です。だからこそ面白い上に、ラテンアメリカの文学らしく読者を飽きさせない工夫が施されています。
また、次々に強い相手を倒してゆくバトル漫画のように、次はどんな女性を、どうやって口説くのか楽しみになります。同時に、頁が進むに連れ、ペドロの饒舌と嘘に愛着が生まれてきます。
だからこそ、読了後の虚しさは格別です。それまでの陽気さ、気楽さが嘘のように暗鬱な気分にさせられるのです。
リマでソフィーの写真を拾ったというのは出鱈目で、マラテスタには原稿をビリビリに破かれており、さらにペドロは、ソフィーに撃たれて死んでしまいます(三人称のなかに科白や心の声が混じるので、どこまでが嘘か分からないし、撃ったのがソフィーかどうかも判然としない)。
ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカを気取って、「人生は夢」と嘯くペドロの受難は、これでやっと完結します。
今際の際に、自分以外の何者でもなかったことに気づいた彼にとって、死はある意味、救いといえるかも知れない。
しかし、それを救いと呼べるほど達観できる読者は、いかほどいるでしょうか。
少なくとも人生の終わりが近づいた僕にとっては、親の金で世界中をふらふらと放浪していたペドロが、歳を取ってから何ひとつ成し遂げていないことを認識し、それでも戯けながら死んでゆく様は、染みまくります。
だからといって、何もできないところが浮世の厳しさであり、ブツブツといいわけをしながら生きてゆかねばならぬところはペドロそっくりなのですが……。
『幾度もペドロ』ラテンアメリカの文学、野谷文昭訳、 集英社、一九八三
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