Geek Love(1989)Katherine Dunn
キャサリン・ダンの『異形の愛』(写真)の原題にある「ギーク(geek)」とは、見世物小屋で鶏を食いちぎって生き血をすする芸人のことです。
訳者の柳下毅一郎によると「geekという言葉を、その芸をあらわすものとして最初に活字にしたのは本書『ナイトメア・アリー』だという(もともとは「愚か者」を意味する言葉だった)」だそうです(ハヤカワ文庫『ナイトメア・アリー』の「訳者あとがき」)。
『ナイトメア・アリー』というと、二〇二一年のギレルモ・デル・トロ監督による映画を思い浮かべる人が多いと思いますが、ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの原作は一九四六年に出版され、翌年には早くも一度目の映画が公開されています(原題は原作と同じだが、邦題は『悪魔の往く町』)。
『ナイトメア・アリー』で重要な役割を果たすギークですが、『異形の愛』では上記のような意味だけでなく、社会不適応者というニュアンスも含まれるのかも知れません。
『異形の愛』は、はじめペヨトル工房から刊行されました。
フリークス(異形の者たち)が主役の小説、かつマニアックな出版社故さほど売れなかったと思われます。ペヨトル工房解散後、絶版となっていたのを河出書房新社が二〇一七年に復刊しました。
どういった層に、どの程度読まれているのか分かりませんが、内容以前に、文体や構成が独特で(訳も)、なかなかの難物であることは間違いありません。
アロイシャス(アル)・ビネウスキは、巡業サーカスの主催者で、上流階級の家庭に育ちながら空中ブランコ乗りに憧れたリリアン(リリー)と結婚します。
ふたりは薬物を摂取したり、放射線を浴びたりし、わざとフリークスを生みます。
長男のアルチューロ(アーティ)は、手足がヒレのようになったアザラシ少年。
長女のエレクトラ(エリー)とイフゲニア(イフィー)は、結合双生児。
語り手のオリンピア(オリー)は、くる病で白子症の小人で、髪の毛がありません。
オリーの弟のフォーチュネイト(チック)は、一見普通ですが、念動力(サイコキネシス)の持ち主です。
一家はヴァンで生活しながら、全国を旅しています。
家族にとって、フリークであることは誇りです。そのため、外見上は健常者と変わらないチックは肩身の狭い思いをしています。彼は、念動力という凄い力を持っているのですが、スリやギャンブルのイカサマをしたのに上手くゆかなかったこともあり、イジケた少年に育ってしまうのです。
最初のうち、家族の中心は父親のアルでしたが、やがて、長男のアーティが観客の質問に答えるショウで人気を博し、実権を握るようになります。それに伴い、兄弟たちは召使のような立場に追いやられてしまいます。
アーティは一種のカリスマで、そのうち彼を中心としたカルト集団が形成されます。
信者たちは、ドクターフィリスというアーティの協力者による、手足切断手術を受けます。あるいは、すでに体の一部を失った者たち(睾丸を切り落とした記者や、妻をショットガンで射殺したとき、銃が暴発して顔半分を吹き飛ばされた男など)も集ってきます。
カルトは次第に大きくなり、入信するのに最低五千ドルの持参金が必要になったり、完全な昇進を得て、頭と胴体だけになり金皿に載ったカボチャとして生きる者が現れるなどエスカレートしてゆきます。
この辺りは妙な迫力があって、ゾッとさせられます。リアリティはありませんが、狂信的なカルトの不気味さが上手く表現されているからです。
さて、アーティはますます増長し、体だけでなく、心までもフリークになってゆきます。
結合双生児の片方にロボトミー手術を施したり、切り離そうとしたり、チックをドクターフィリスの後釜に据えたりと独裁者の如くふるまうのです。
そんなとき、十七歳のオリーは、チックに頼み、アーティの精子を念動力で自分の子宮に移動してもらいます……。
実をいうと、物語の軸はもうひとつあって、すでに老齢になったリリー、ラジオの朗読の仕事をしているオリー、そして、オリーの娘で尻尾のあるミランダが同じアパートに暮らす、約二十年後の物語がそれです。
三人が祖母、母、孫であることを知っているのはオリーのみ。というのも、ミランダは幼い頃、役立たずとして修道院に預けられ、リリーは精神に異常をきたしているからです。
ビネウスキ家は、三人を残して死に絶えていますが、一見まともそうなオリーも、フリークこそが美しく、何より家族を誇りに思っています。だから、ビネウスキ家のアイデンティティを守るため、人体改造が趣味の裕福な女性を、躊躇うことなく殺すことができるのです。
正直、この小説をどう捉えるべきか判断するのは困難でした。
見世物小屋でのできごとは正にホラーの要素がたっぷりですが、恐怖小説とは明らかに違います。かといって、フリークスの苦悩といったテーマにしてはエンタメに寄りすぎているし、僅か数頁で一家を皆殺しにするなどご都合主義が目立ちます。
さらに、『絢爛たる屍』のポピー・Z・ブライトのようなオタクっぽさもない。
例えば、トッド・ブラウニング監督の『フリークス(怪物團)』は、公開当時、観客に衝撃を与え、監督のキャリアは事実上抹消されてしまったそうです。
しかし、今みると、フリークスたちは心優しく、逆に健常者のずる賢さ、精神の醜さを描いた、ごく普通の映画に思えます(美女が「ニワトリ女」にされてしまうのはショッキングだが……)。
ジョン・ウォーターズの『マルチプル・マニアックス』に登場する一座「The Cavalcade of Perversion」は、フリークスこそいないものの、ひたすら変態と悪に徹しており、これはこれで清々しい。
一方、『異形の愛』は、外見よりも内面の歪さに焦点を当てているのですが、異様な設定に無理がありすぎて、文学として読まれたいのなら、寧ろフリークスを持ち出さない方がよかったのではないかと思えてきます。
フリークが正常で、それ以外が障害者という価値観は、結局のところ、一つ目小僧にとっては、人間こそ奇形というのと大差がなくなってしまうからです。
兄弟たちはフリークが権力を持つ特殊な世界で育ちますが、オリー以外は社会とのかかわりがないため、差別や軋轢が表現されることはなく、ただただ孤独な怪物として育ち、自滅するだけなのです。
サーカスで育ったブラウニングと異なり、作者のダンはフリークスとは縁がなさそうですし、作品を売るためにセンセーショナルな題材を選んだといわれても仕方がないかも知れません……。
そう考えると、この小説は、やはり新感覚のホラーとして読んだ方がよいのでしょう。
ティム・バートンが映画化の権利を購入し、そのままになっていますが、彼なら面白くしてくれそうだっただけに残念ですね。
『異形の愛』柳下毅一郎訳、ペヨトル工房、 一九九六
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