Les Derniers Contes de Canterbury(1944)Jean Ray
ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』は、古典だけあってパロディ作品も数多く存在します。
巡礼者がひとつずつ物語るという形式だけを真似たものから、ヘンリー・デュードニーの『カンタベリー・パズル』のように、物語で競い合うのではなく、パズルで競うものまで色々とあります。
変わったところでは、ダン・シモンズの「ハイベリオン」シリーズなども広く読まれているようです。
今回、ついでに『カンタベリー物語』を読み直してみたのですが(実際はその逆で、『カンタベリー物語』を読み返すついでに『新カンタベリー物語』を読んだ)、やっぱり面白いですね。
登場人物がバラエティに富んでおり、それと同様、彼らが物語る内容も聖から俗まで様々。さらに、語り口も多様、読者を飽きさせない文学的技巧も沢山含まれている点が魅力でしょうか。
やはり小説は、「何を書くか」より「どう書くか」が大切であることがよく分かります。
さて、ジャン・レイの『新カンタベリー物語』(写真)は、本家から六百年後のお話。
カンタベリーへの巡礼の途中に立ち寄った旅籠「陣羽織亭(タバード)」を、時空を超えて訪れた三流作家のトビアス・ウィープ。そこには亡霊たちやエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』に登場するムル、ウィリアム・シェイクスピアの作品に出てくるジョン・フォルスタッフ、さらにはチョーサーまでもが現れ、不気味な話を語り始めます。
正直、『カンタベリー物語』もホフマンもシェイクスピアも取っ掛かりでしかなく、読み進めるうちにパロディであることなど忘れてしまいます。
寧ろ、献辞にもあるH・P・ラヴクラフトの短編のような趣があります。なぜなら、本家は説教からファブリオまで様々な話が楽しめますが、レイが描くのは残酷で怪しい物語ばかりだからです。
ただし、モーリス・ルヴェルの『夜鳥』の際にも書きましたが、一編一編がごく短く(約二百五十頁に十七編)、多くにはオーソドックスだけどゾッとするオチがついているので、個々のあらすじや感想を書きにくいのが難点です。何を書いても、ほぼネタバレになりますからね。
尤も、前述したように、語られる内容は余り重要でないのかも知れません。
心理的な仕掛けは勿論、斬首や絞首、飛び散る血や内臓などによって恐怖を演出しているとはいえ、レイが目指したのは、飽くまで幻想的な物語が語られる舞台を用意することだったような気がするからです。
現世と冥土、現実と虚構の中間に位置する料理屋。そこに集う異形の者たち。
本来なら幽明境を異にしたり、決して交わるはずのない人たちが束の間の出会いを果たす……。
非常に魅力的な場所ですが、一方でここは異世界への入り口にすぎません。
亡霊たちの話は本家に劣らず面白いものの、素材の域を出ておらず、もう少し膨らませればさらに怖くなりそうな気がします。つまりは『カンタベリー物語』や『牡猫ムルの人生観』と同様、未完成といってしまってもよいかも知れない……。
作中、ムルは「死者たちが墓のかなたから、栄光もなく打ち捨てられた作品のほうに絶望的な腕をさしのべるようなことがこれからもあってはならないのです。彼らの亡霊の手が、動かぬ筆を動かしに行ったり、彼らの光の消えた瞳が、白いまま残された頁の上に死後の涙を落としたりしてはいけないのです。彼らがその力の最後のかけらをふるい起こして、生者を感動させて、未完の仕事をつづけさせようなどとしてはならないのです。なぜなら、死がなし遂げたものは立派になし遂げられたからなのです」と語っています。
これはレイ自身に対する皮肉、自己弁護、あるいは矜持なのでしょう。
勿論、読者には、それぞれの物語を自分なりに完成させる資格があります。
人肉料理、畸形の赤児、何度も生えてくる首、人間になった紙人形、小人や巨人、河のなかから現れた妖精のような美女、悪魔などなど、様々な高級食材が揃っていますので、ぜひ腕に縒りをかけてみてください。
『新カンタベリー物語』篠田知和基訳、創元推理文庫、一九八六
→「名探偵ハリー・ディクソン」ジャン・レイ
『カンタベリー物語』関連
→『カンタベリー・パズル』ヘンリー・デュードニー