Deux Anglaises et le continent(1956)Henri-Pierre Roché
アンリ=ピエール・ロシェは画商や美術評論家で、豊富な恋愛体験をもとに二冊の自伝的小説を書きました。
処女作『突然炎のごとく(原題:Jules et Jim)』(1953)(写真)は、フランソワ・トリュフォーの映画(1962)によって有名になります。
ただし、ロシェは一九五九年に亡くなっているため、いわば映画のヒットによって没後に発掘された作家といえます。
『恋のエチュード』(※)(写真)も、同じくトリュフォーが映画化しています。
翻訳は、映画の日本公開に合わせて出版されました。
物語は世紀末から始まります。
一八九八年のファショダ事件によって英仏に緊張が走っていた頃、フランス人の青年クロードは、ミュリエルとアンという英国人姉妹と出会います。クロードとアンは十九歳、ミュリエルは二歳年上です。
やがて、クロードはミュリエルを愛するようになりますが、彼女は返事を保留し、互いの母親も交際に反対します。そこで、一年間会わず、手紙のやり取りもせずに過ごし、気持ちに変化がないか確かめることになります。
ところが、この空白が気持ちの変化を齎します。彼を恋い焦がれるようになるミュリエルと対照的に、クロードは冷めてゆき、アンと急接近します……。
ジャン=ルネ・ユグナンの『荒れた海辺』は、二十六歳で夭逝した作家による唯一の長編小説です。それに対して『恋のエチュード』が出版されたとき、ロシェは七十五歳を過ぎていました。
正直、老年になって、このような恋愛小説が書けることに驚きます。歳を取ると感受性が鈍くなり、心の機微などどうでもよくなるのが普通です。
『突然炎のごとく』とともに自伝的作品といわれますが、よくいうと若々しい創作意欲に溢れ、悪くいうと死ぬ前に青春を美化したくなった感じでしょうか。
『突然炎のごとく』は、ドイツ人のジュールと、フランス人のジムという男性が、カートという奔放な女性(映画ではカトリーヌ)を愛し、その奇妙な三角関係が悲劇を迎えるまでを描いています。
『恋のエチュード』は、男性ひとりに、女性ふたりに変わりましたが、三角関係は共通しています。最も大きな違いは、主に三人の日記と書簡から成り立っている点です。
手紙や日記のみで構成されているため、読者は具体的かつ客観的なできごとを知ることができません。
飽くまで、彼らが重要と思われる点を主観的に捉えただけなので、誰と誰が会ったかは分かっても、何が起こったかははっきりしないのです。
この小説は、臆病で観念的なミュリエルと、現実的で奔放なアンという、タイプの異なる姉妹との恋愛を描いています。
ミュリエルは、クロードの愛の告白に対して「今はあなたを愛していないが、これから愛するようになるかも知れない」といってしまうような謎に満ちた存在ですから、物語も情景描写も余り意味がなく、ひたすら抽象的にゆくのが相応しいといえます。
一方、アンは、クロードの肉欲を刺激してきます。
幼い頃に自慰を覚えたという疚しい気持ちから、禁欲的な修道女のようにならざるを得ないミュリエルと離れた途端、クロードはアンの肉体に溺れます。
性欲を抑えていた分、アンとのセックスは激しく、官能に満ちたものになりますが、これを詳しく書いてしてしまうとポルノグラフィになり兼ねません。その点、情熱的な手紙は、ふたりの肉体的な欲求の盛り上がりを分かりやすく表してくれます。
つまり、生々しい描写を避けつつ、読者の劣情を煽り立てるという意味でも、手紙や日記は効果的なのです。
なお、アンがクロードとつき合いつつ、ほかにも複数の愛人を持つところ辺りから、クロードと愛し合っていることをミュリエルに告白する場面、さらにアンが結婚する箇所まで、クロードの日記も手紙も登場しません。
それによって、彼が何をして、何を考えているのか、分からないようになっています。ちょうど目まぐるしく状況が変わる部分なので緊迫感が生まれ、最後にミュリエルの一行のみの手紙が、より鮮やかに目に飛び込んでくるのです。
書簡や日記は、ロシェが元々試みたかった手法なのかも知れません。というのも『突然炎のごとく』は、カートの日記が発見されたという記述で終わるからです。
毎日のようにやり取りをしていた三人の手紙は、最終章で四年後、十三年後と間隔が空き、時間から取り残されたクロードの寂しい現実が露わになります。
様々な愛の形を丁寧に描いてきたと思ったら、ラストで唐突に「クロードのマザコンぶりが批判」されます。これは、ある意味、『突然炎のごとく』よりもショッキングかも知れません。
なお、この物語は、社会経験の乏しい若者たちの未熟な恋愛譚ではありません。彼らは、良質な文学や美術に常に触れており、交換教授と称して、それぞれの国の言語や芸術、文化を教え合うこともしています。
若いけれど(作者が老人だけあって)教養が滲み出ており、その部分だけ読んでも十分楽しめるのです。
現代であれば、こんな若者たちはリアリティがありませんが、二十世紀初頭の英仏ですから、違和感はないわけです。
そういう意味でも、彼らのような関係を羨ましく感じます。尤も、今の若い人に刺さるかどうかは何ともいえませんけれど……。
最後に、トリュフォーの映画について少し。
手紙を書くということは、離れた場所にいなければなりません。事実、小説ではほとんどの場面で、三人は離れ離れなのです。ところが、映画でそれをするわけにはゆかないため、隣の家から手紙を書いたりします。
そうした不自然さはありますが、登場人物も景色や建物(英国のシーンもノルマンディーで撮影された)も絵画のように美しい。
ただ、トリュフォーの持ち味である軽妙さには欠けるような気がします。『突然炎のごとく』にしても、『私のように美しい娘』にしても、ハードな内容を軽いタッチで仕上げるところが彼の長所ですが、『恋のエチュード』はよい意味の軽薄さに乏しいのです。
小説との大きな違いとして、以下の点があげられます。ミュリエルはアンの姉ではなく妹で、クロードの母親が亡くなり、クロードは『Jules et Jim』のパロディのような『Jérôme et Julien』という小説を出版し、そして、アンが亡くなってしまいます(問題となった、ミュリエルの血も小説にはない)。
原作のラストは悲劇ではなく、トリュフォーが好きそうな皮肉かつブラックなオチなので、そのまま採用してもよかったかも知れません。これでは、『突然炎のごとく』の二匹目のドジョウを狙ったといわれても仕様がないでしょう。
なお、クロード役は、アントワーヌ・ドワネルくんを演じ続けたジャン=ピエール・レオなので、ついついドワネルと混同してしまいそうになります。
※:原題は「ふたりの英国娘と大陸」という意味だが、ここでの「大陸(continent)」とは、英国を除いたフランスを含む大陸の象徴であり、クロードを指す。つまり、この小説も「ジュールとジム」同様、「ミュリエル、アンとクロード」となる。
『恋のエチュード』大久保昭男訳、角川文庫、 一九七二
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