If the River Was Whiskey(1989)T. C. Boyle
ペン/フォークナー賞を受賞した『World's End』や、映画『ケロッグ博士』の原作者として知られるT・C・ボイル(※)は、今に至るまで膨大な量の短編を書いています。
日本でも三冊の短編集が刊行されており、『もし川がウィスキーなら』(写真)は、そのうちの一冊です。
尤も、二十一世紀になってからは、長編も短編集も邦訳はゼロなので、現在どのような作品を書いているのか分かりません。
小説を初めて読んだのは十八歳のときというボイルは、ドナルド・バーセルミやロバート・クーヴァーが好きというだけあって、ポストモダン文学に影響を受けた世代と認識していましたが、三十年も経てば作風は変わっているかも知れませんね。
世紀が変わり、ジョン・バースですら全く邦訳されなくなってしまいましたが、海外文学が盛んに翻訳されていた時代に思いを馳せる意味でも、久しぶりに読み返してみます。
少なくともこの短編集に関しては、本人が「抱腹絶倒」を目指したというとおり、ゲラゲラ笑いながら読めるものが数多く収められています。そうでないものも、比較的読みやすいのが特徴です。
「モダン・ラヴ」Modern Love
編集者のブリーダ・ドランヒルとつき合い始めた「僕」。彼女は感染症を異様に恐れていて、レストランでも映画館でも必要以上に警戒し、必死に除菌します。初めてのキスは軽く触れる程度でしたが、いよいよベッドインというとき、ブリーダに渡されたのは「全身コンドーム」でした。
ここまで極端ではありませんが、現実にはいくらでもありそうな物語です。病原微生物は目にみえないため、恐怖は際限なく増大してゆきます。落語のようなオチがついているのも愉快です。
「お粗末なフグ」Sorry Fugu
新聞の「外食」欄は、影響力の大きいふたりのライターが交互に記事を書いています。ひとりは慈悲深い母親のように称賛の嵐ですが、もうひとりの女性ウィラ・フランクは正反対で、気にいる料理はひとつもなく、毒に満ちた批評を書き続けているのです。恋人のマリーとレストランを経営するアルベルトは、ウィラにこそ店にきて欲しいと願っていたところ、遂にウィラが現れるのです。
料理に限らずあらゆる批評は、貶す方が楽なのか、褒める方がよいのかについて考えさせられます。褒めた方が相手も傷つかず、波風も立たない(現代でいうと炎上しない)ので一見、無難に思えますが、実はそう単純な話ではないのです。
「大売出し」Hard Sell
イラン革命の指導者ホメイニ師(ルーホッラー・ホメイニー)のネガティブなイメージを払拭するため、メジャーリーグと組み合わせてプロデュースする男の話。
『メジャー・リーグのうぬぼれルーキー』や「アリバイ・アイク」などでお馴染みのリング・ラードナーの文体(気さくな一人称)のパロディです。ラードナー好き、野球好きには堪りません。
「心の平和」Peace of Mind
ホームセキュリティシステムを導入する夫婦、そのセールスをする女性ジゼル、契約する気もないのにジゼルを家に呼び、恐怖を味わせ楽しむ男。心の平和を得るためのセキュリティが却って災いを齎すというブラックな一編です。
「沈む家」Sinking House
夫を亡くした老女が家中の水を出しっ放しにします。家だけでなく、庭や隣家をも水浸しになり、まるで水のなかに沈んでゆくような感覚になります。認知機能の低下した孤独な老婆の人生が重く伸し掛かってきます。短いけれど、印象に残る短編です。
「人間蠅」The Human Fly
パッとしないエージェントである「おれ」の元に突如現れた人間蝿(Human Flyとは、高層ビルに登る人間)のゾルタン。話題になると思い、「おれ」はゾルタンと契約しますが、彼はずだ袋に入って、勝手にビルにぶら下がってしまいます。やがて、ゾルタンはジェット旅客機の翼に体を固定して飛行したり、トレーラーの車軸につかまって全米を旅したりしますが……。
書いているうちに、フランツ・カフカの「断食芸人」に似てしまったようです。断食芸人は人々に忘れ去られ、檻のなかで死に藁とともに葬られますが、人間蝿は死後、アニメ化され人気を博します。現代であれば、インターネットのなかで生き続けていることでしょう。
「帽子」The Hat
シエラ・ネバダ山脈のロッジに集う人々。語り手のマイケル・コオナーは何を生業としているのか分かりませんが、ロッジに入り浸り、子持ちのジルとつき合っています。熊を射殺するために送られてきた部隊や、クリスマスやイースターになるとやってくるセクシーな歯科技工士、夫を事故で亡くしたタイ人女性、ロッジのオーナーなどとのやり取りが描かれます。
特に大事件が起きるわけではないところが、この短編のミソです。閉ざされた空間における特殊な人間関係が、それを許さないからです(集まる場所はロッジしかないので、揉めごとを起こすと通えなくなる)。そのまったりした感じがとても素敵です。
「メ・カゴ・エン・ラ・レチェ(ニカラグアのロバート・ジョーダン)」Me Cago en la Leche(Robert Jordan in Nicaragua)
ロバート・ジョーダンと聞いて何者か分かるのは、海外文学に相当詳しい人でしょう。彼は、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の主人公です。
この短編の原題「Me Cago en la Leche」はスペイン語の悪口で「牛乳にうんこしてやる」という意味です。勿論、『誰がために鐘は鳴る』にも使われています。死を覚悟したジョーダンが、仲間を先にゆかせ、自分は機関銃で敵を食い止めようとする場面での、アグスティンの科白がそれです。新潮文庫の大久保康雄訳では「ああ、なんてこった、畜生!(Me cago en la leche que me han dado!)」となっています。
さて、ヘミングウェイのジョーダンは、スペイン内戦で外国人志願兵として活躍しましたが、ボイルのジョーダンはザ・クラッシュやシド・ヴィシャスが好きなパンクスで、多分『サンディニスタ!』に影響されてニカラグアのサンディニスタ革命に参加したようです。え、ストーリーですか? 『誰がために鐘は鳴る』とほぼ同じですよ。
「再会のとき」The Little Chill
一九八三年の映画『再会の時(The Big Chill)』(1983)のパロディです。映画は、共通の友人が自殺し、大学時代の仲間が十五年ぶりに再会するところから始まります。彼らは反体制活動をしていたにもかかわらず、人気俳優、ジャーナリスト、ディスクジョッキー、実業家、医師、弁護士など、それぞれ社会的に成功しています(自殺した人以外)。
一方、ボイルの小説の人物はひどい。インドや中東から子どもを連れてきて、子のない夫婦にあてがう夫妻、尼僧になった後、三つ子を産んだ女、ハゲでデブのヤク中、十二人を殺した男の父親などなど。
ただし、実は、本家の方が遥かにとんでもない話なのです。一九八〇年代の映画であるせいか軽く扱われていますが、彼らはラストに信じられないことをするんです!
「ハチの王」King Bee
子宝に恵まれなかったケンとパットは養子を迎え入れることにしました。白人以外の赤子なら六日で届きますが、白人は十一年、ブロンドだと十二年、金髪のブロンドだと十四年待ちなので、仕方なく九歳のアンソニーにします。これが悪魔のような子で、自分を蜂の王だと思っているようです。
スリム・ハーポの「キング・ビー」(ローリング・ストーンズのカバーが有名)が響いているようですが、ひょっとすると、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』も掛かっているかも知れません。養子を、まるで保護犬のように選ぶ時点でゾッとします。
「解氷」Thawing Out
恋人のナイーナがハドソン川で、年寄りたちと寒中水泳をするのを、馬鹿馬鹿しいと思いつつ眺めていたマーティ。彼はその後、友人とサンフランシスコにゆきます。ナイーナへの連絡も途絶え、失意のまま戻ってきたマーティは、何もかもを失っていることに気づきますが……。
凡庸と馬鹿にしていたものが、実は優しく心地よかったりします。凍えるほど冷たそうな川も、入ってみるとびっくりするほど温かいのです。
「悪魔とアーヴ・チェルニスキ」The Devil and Irv Cherniske
アーヴの前に悪魔が現れ、隣家の隠し財産を奪う計画に協力しろといいます。それを元に、アーヴに証券会社を設立させ、元本を保証しつつ損させる先物取引で大儲けさせます。
悪魔といえども、金を稼ぐには人の手が必要なのでしょうか。世に蔓延る投資詐欺は悪魔の仕業かも知れませんね。
「奇跡」The Miracle at Ballinspittle
聖母像の手足が動くのを目撃したと若い女性がいったことで観光客が押し寄せてきます。中年のディヴィ・マッガヒーは幻覚に襲われます。イエスの奇跡のパロディなのかも知れませんが、僕にはさっぱり分かりませんでした。
「ザパトス(靴)」Zapatos
チリで、イタリア製の靴を売るには関税の問題が横たわります。「ぼく」は靴屋のタゴベルト伯父に頼まれ、無関税港でイタリア製の靴を手に入れることになりました。
一足の値段の半分の予算で、三万足のイタリア製靴を落札し、伯父は大儲けするのですが、そこには靴ならではの理由がありました。
「サル女史の引退」The Ape Lady in Retirement
引退してアフリカから故郷のコネチカットに帰ってきた猿の研究者ベアトリス・アンボ。彼女は、実験的に人間として育てられたコンラッドというチンパンジーを引き取ることにします。
夫と死別し、四十年ぶりに戻ってきた故郷は、しっくりきません。一方、調教も栄養管理もされずに育てられたコンラッドもストレスが溜まっているようでした。ラストは悲劇ですが、生きづらさを感じるふたりにとっては救いになるのかも知れません。
「もし川がウィスキーなら」If the River Was Whiskey
父親はギターをほとんど弾かなくなり、息子はノーザンパイクを釣ろうとしています。父親は、妻も息子もやがて出てゆき、ひとりぼっちになると考えています。
表題は、チャーリー・プール(ノースカロライナランブラーズ)の曲です。視点人物が一定しないので誰に感情移入すればよいか迷い、なおかつ具体的なことが書かれていないため理解しにくいのですが、現在の自分に当て嵌めると、人生の終わりに後悔や孤独をひしひしと感じる男といった感じでしょうか。
※:日本では「T・コラゲッサン・ボイル」という表記が多いが、アメリカでは「T. C. Boyle」が多い(「T. Coraghessan Boyle」もたまにある)。
『もし川がウィスキーなら』青山南、古屋美登里訳、新潮社、一九九七
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