The Burnt Orange Heresy(1971)Charles Willeford
チャールズ・ウィルフォードは「ホーク・モーズリー」シリーズのヒットにより、一九八〇年代に再評価の進んだペーパーバックライターです。
しかし、寧ろそれ以前のノンシリーズにこそ傑作が隠れていたことを初めて知り、驚いた人が多かったようです。
特に一九五四年に出版された『拾った女』は、ミステリーやサプライズエンディングといった概念を超越した傑作です。ビル・S・バリンジャーの『赤毛の男の妻』はミステリーとして優れているかも知れませんが、『拾った女』はそのさらに上をゆき、文学における「白人至上主義」に一石を投じたと思います。
『拾った女』の主人公ハリー・ジョーダンは挫折した画家でしたが、『炎に消えた名画』(写真)の主人公ジェイムズ・フィゲラスは全米に二十五人しかいない専業の美術評論家です。
この二作は「アート」という共通点があるものの、タッチは正反対。前者は夜のサンフランシスコに蠢く恋人たちを、後者は太陽の降り注ぐフロリダでアートに群がる人々を描いています。
美術批評家のジェイムズ・フィゲラスは、フロリダのパーティでジョゼフ・キャシディという弁護士に声を掛けられます。キャシディは美術コレクターで、フランスの芸術家ジャック・ドゥビエリューを密かにフロリダに移住させたといいます。
ドゥビエリューはダダイズムとシュルレアリスムをつなぐ巨匠ですが、個展を開いたのは過去に一度だけで、その後、すべての作品は火事で消失しています。彼が作品を公開しない理由は、観客は自分ひとりだけでよいと考えているからです。
そのドゥビエリューにインタビューし記事を書く代わりに、火事以後に製作された彼の作品を盗み出すようフィゲラスはキャシディに依頼されますが……。
第一部は、美術界の事情や裏話、架空の画家の評伝といったもので占められています。それはパルプ小説の域を外れた造詣の深さと説明の細かさで、大いに引き込まれます。
フィゲラスは美術批評の世界では若手のホープですが、経済的には教職という侮蔑すべき仕事に手を染めずに済むギリギリの生活をしています。地位を高めるには、安い報酬で美術雑誌に原稿を書いたり、画家や画商との癒着をやめなければなりません。その代償として収入が減るのを覚悟している彼は、とても誠実な批評家といえます。
そこに、一癖も二癖もあるアーティスト、画商、コレクターらが絡み、「シーズン」のマイアミは、さながらアートの梁山泊のようです。
第二部の隠遁作家ドゥビエリューの作品を長々と論じる場面も退屈しません。架空のアーティストとはいえ、実在の人物やできごとのなかに組み込まれるため、現代アートの歩みを振り返っている感じになるのです。
ドゥビエリューとのインタビューも、小難しい芸術論は軽く触れる程度で、ほかのアーティストとの関係がほら話を交えつつ主に語られるため、興味深く読めます。老人の変人ぶりや茶目っ気も楽しい。
これだけでも無類の面白さなのですが、この小説はクライムノベルですから、絵の盗難とそれにまつわるサプライズが用意されています。しかし、真相とその後の展開はある程度予想がついてしまいます。
また、芸術に人生を狂わされた人々といったテーマも読み取れます。
それらは詰まらなくはないけれど平凡で、『拾った女』のような衝撃はありません。
寧ろ、「芸術そのものと、傾倒するアーティストに精通している評論家や研究者、いわゆる権威、第一人者といわれる人は、作者が次にどのような作品を作り出すか、分かるのか」、もっというと「作者に代わって、新作を作り出すことができるのか」というところに踏み込んでいるのが驚きでした。
が、それは理論上の遊びではなく、文学や音楽なども含めた様々な芸術において、古今東西、形を変え繰り返されてきたことだと気づきます。勿論、「真相はいまだに闇のなか」といった作品も山ほどあります。
前述のとおり、ミステリーとしての驚きはないものの、読了後にたっぷりと考えさせられます。
『炎に消えた名画』がパルプフィクションではなく、主流文学として発表されていたら、ウラジーミル・ナボコフの『青白い炎』と同列に論じられていたかも知れない……というのは大袈裟だとしても、エンタメ小説と馬鹿にせず抑えておくべき小説であることは論を俟ちません。
『炎に消えた名画』浜野アキオ訳、扶桑社ミステリー、二〇〇四