読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『コブラ』セベロ・サルドゥイ

Cobra(1972)Severo Sarduy

 キューバで医学を学んでいたセベロ・サルドゥイは、パリに留学した際、雑誌「テル・ケル」を制作していた知識人たちと出会いました。そして、一年後に奨学金が切れてもキューバに帰らず、そのままパリに残りました。
 フィデル・カストロ政権下においては、作品が検閲されること、さらに同性愛者が迫害されることが亡命を選択した理由だったといわれています(こちらを参照)。

 フィリップ・ソレルスらが始めた「テル・ケル」に参加していたことからも分かるとおり、サルドゥイもまた前衛的な作風です。
 新設されたばかりのメディシス賞外国小説部門を受賞した『コブラ』(写真)も当然ながら一筋縄ではゆかない作品です(ソレルスの『』が激辛なら、『コブラ』は中辛程度)。

 タイトルの「コブラ」は主人公(人形)の名ですが、ほかにも複数の意味があります。
 まず、第二次世界大戦後にデンマーク、ベルギー、オランダの前衛芸術家が作ったグループの名を指します。これは、コペンハーゲンCopenhagen)、ブリュッセルBrussels)、アムステルダムAmsterdam)の頭文字をつなぎ合わせたものです。
 サルドゥイは世代的に参加することはできませんでしたが、強い影響を受けたのではないでしょうか。

 また、コブラとは、一九六〇年代にパリのキャバレー「カルーセル・ド・パリ」に出演していた踊り子であるとか、勃起したペニスを指すなどともいわれています。

 さらに、サルドゥイの作品はバロック文学の流れを汲んでおり、書名は「Barroco(Baroqueのスペイン語)」のアナグラムでもあります。
 バロックについては、『コブラ』の肝でもあるので後ほど詳しく取り上げます。

 この小説はあらすじを記してもほとんど意味がありませんが、仔細に分析する能力もないので、理解できる範囲のことを雑然と述べてみます。

コブラ』は二部構成で、一部、二部ともに五つの章から成り立っています。一応、小説に分類されていますが、詩や日記のような形式で書かれた部分もあります。
 一部は饒舌で陽気でエロティックなトーン、二部は打って変わって宗教的かつ死の匂いに満ちています。こうした対比も、後述するバロック小説の特徴です。

 一部は、抒情的人形劇の女王としてほかの人形から嫉妬されるコブラ、そしてコブラの製作者かつ保護者である売春宿の夫人(セニョーラ)、コブラの分身パップが主な登場人物です。コブラは、足の形を変えようとしたり、小人化したりした後、性転換手術を受けるため、タンジールにいるという高名な医師クタツォーブを探して旅立ちます。
 二部では、バイクに乗ったギャング(ツンドラ、さそり、トーテム、とら)が登場し、宗教的儀式を行ない、コブラを切断し、破壊します。

 コブラは人形といっても目の開閉、会話、放尿など人間と同じことができます。
 では、なぜ、敢えて人形という設定を用いたかというと……。

コブラ』は、明らかに変身、変容の物語です。
 肉体の腐敗、侏儒への変身、分身、トランスヴェスタイト(服装倒錯者)、入れ墨、肉体改造、去勢、性転換、生まれ変わりなどなど、様々なメタモルフォーゼが全編を覆っています。ですから、『コブラ』を大雑把に説明すると「変貌への過程が過剰なレトリックで語られている小説」となるのかも知れません。
 コブラが人形である理由は、少女が着せ替え遊びをする如く、無邪気に変身させられるからでしょう。

 繰り返される肉体改造の果てに待っているのは醜悪なモンスターではありません。コブラの望みは「神の化身」となることです。
 それは正に醜い幼虫から美しい成虫への脱皮です。

コブラ』のもうひとつ重要な点は、これが現代のバロック小説であることです。
 バロックは主に十七世紀に流行した芸術や文化の様式です。元々は美術用語でしたが、やがて音楽や文学にも適用されるようになりました。
 バロック文学には「リアリズムから逸脱した歪な様式」「過剰な比喩や寓意」「洗練と悪趣味、信仰とエロティシズムなど相反するものの混淆」「貧弱な内容を華美、誇張、虚飾で飾り立てる」といった特徴があります。
 ロペ・デ・ベガ、ルイス・デ・ゴンゴラ、マドレーヌ・ド・スキュデリ、ジャンバッティスタ・マリーノといった文学者が代表的ですが、今ではこれらを読む人は余り多くないでしょう。

 南米出身の仏教徒であるサルドゥイの場合、そこに東洋思想とラテンアメリカ文学の特徴ともいえる多面性や過激さが加わっています。古典とは一味違う、進化したバロック文学として触れてみる価値はあると思います。
 なお、パトリック・グランヴィルの『火炎樹』も「バロック小説」と宣伝されていましたが、個人的には歪みが半端なく激しい『コブラ』こそ、その名に相応しいと考えます。

 ただし、『コブラ』は猛毒です。
 明確なストーリー、感情移入できるキャラクター、読みやすい文章なんてものを求めて迂闊に近づくと瞬殺されますので、くれぐれもご注意ください。

コブラ荒木亨訳、晶文社、一九七五

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