読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『夜の森』ジューナ・バーンズ

Nightwood(1936)Djuna Barnes

 一九二〇年代のパリは狂騒の時代(Les Années Folles)と呼ばれ、各国から様々なジャンルの芸術家が集まりました。
 文学者ではアーネスト・ヘミングウェイやF・スコット・フィッツジェラルドの名が真っ先にあがりますが、女性の活躍も顕著で、その筆頭がガートルード・スタインとジューナ・バーンズかも知れません(『カルテット』のジーン・リースもいた)。
 ともにレズビアンをテーマにした作家という共通点もあります(※)。

 ただし、多くの邦訳があるスタインと異なり、バーンズは代表作の『夜の森』(写真)しか読めません。
 本書を訳した野島秀勝は解説で「バーンズの人生はただに『夜の森』一作のために献げられたといっていい。彼女の才能の一切は、この作品のなかに完全に燃焼し尽くしたといっていい」と書いていますし、この作品はT・S・エリオット、ディラン・トマス、ウィリアム・S・バロウズらに絶賛されているので、彼らを信じることにしましょうか。
 事実、バーンズは九十歳まで生きましたが、寡作だったこともあって『夜の森』以上の評価を得た作品はないようです。

 一九二〇年代のパリ。フェリックス・フォルクバイン男爵は、アルタモンテ伯爵の屋敷でアイルランド人の医師マシュー・オコナーと出会います。ある日フェリックスは、マシューに引き合わされた娘ロビン・ヴォートに恋をして結婚します。
 しかし、ロビンは息子を生んだ途端、アメリカへ逃げ出し、ノラ・フラッドという女性と関係します。やがて、パリに戻ったふたりでしたが、ロビンはノラを捨て、ジェニー・ペサブリッジという中年の未亡人と再びアメリカへ消えてしまいます。
 ノラとフェリックスは、それぞれマシューに相談を持ちかけます。

 ノラはバーンズ自身を、ロビンはバーンズの同性の恋人(複数)をモデルにしているといわれています(男女を問わず多くの芸術家を虜にしたバーンズこそロビンに相応しいという気もするが……)。それ故、自伝的レズビアン文学とみなされることが多いものの、そんな用語で分類できるほど単純な小説ではありません。
 構図としては、ロビンという小悪魔に振り回される老若男女ですが、彼らの関係を中心にした恋愛小説というのとは少し違います。

 最もユニークなのは、やはりロビンのキャラクターでしょう。作中で盛んに「無邪気」と表現されていますが、とらえどころがなく、つき合った者によって印象の大きく変わる不思議な女性です。
 とはいえ、ロビンについては直接的な描写がほとんどなく、どんな性格なのかはマシューやノラを介して説明されます。マシューによると「完全に無邪気であるとは、完全に人に理解されないこと、特に自分自身に理解されないことだろう」ということですし、ノラは「あの女はわたし自身なのよ」といいます。

 一方で、生身のロビンが表現されないことから、読者には彼女の魅力が伝わりづらい。何となく鏡のようなタイプだと思いつつ読んでいると、ノラの科白で合点がゆくという次第です。
 実際のところ、人は自分によく似た者により執着するように思います。それは愛なのか、それとも別のものなのか分かりませんが、現実でも得てしてそうした傾向があるのではないでしょうか。
 読み手は、ロビンの曖昧な部分をそれぞれの思想や感覚で埋める作業によって、自分の分身を作り上げるのかも知れません。

 というわけで、男も女もロビンの虜になるわけですが、例えばノラは、ロビンが元の世界に帰りたがっていると感じます。女性同士の恋愛はファンタジーの要素が強く、夫と子どものいるロビンはある日、夢から醒め、現実に戻ってしまうと恐れているのです。それを避けるにはふたりで死ぬこと以外ないとまで思い詰めます。
 しかし、マシューが「ロビンがきみ(ノラ)の人生のなかにいるのではない。きみが彼女の夢のなかにいるんだ、きみはそこからけっして出られないだろう」というとおり、実はロビンこそが夜の世界そのものなのです。
 彼女に惹かれた者たちが次々と夜の森に吸い寄せられてきます。そこは現実に対する虚構であり、生に対する死であり、性的多数者に対する少数者(ノラはレズビアン、マシューは少年愛者)でもあります。

 今にも崩れそうな危うさが漂っているからこそ、幻想と退廃に満ちた夜の森は、痺れるほど美しい。
 虚構とも現実ともつかない世界を亡霊の如く彷徨う登場人物たちも、時代から取り残される者の哀しみを背負っていて、忘れ得ぬ印象を残します(特にマシュー)。

 また、それらは狂騒の二十年代の影のようでもあります。華やかさや自堕落さとは正反対ですが、そもそもひとつのイメージで時代を語るなどナンセンスですから、どちらが真実であるかなど考えるだけ無駄でしょう。
 興味のある方は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』と読み比べてみても面白いかも知れません。

※:ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』にはスタインもバーンズも登場する(バーンズはワンシーンのみ)。

『夜の森』ゴシック叢書23、野島秀勝訳、国書刊行会、一九八三

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