読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『わが心の子らよ』ガブリエル・ロワ

Ces enfants de ma vie(1977)Gabrielle Roy

 移民文学というジャンルのなかで、子ども(たち)を主人公にした作品は一際輝いてみえます。
 主役が子どもなので、必然的に移民二世以降の物語となります。多くは作者自身をモデルにしており、貧しく、虐げられながらも、ときに屈託なく、ときに社会の仕組みに憤りを感じながら成長してゆく様を描いているのが特徴です。

 こうした小説は、移民大国であるアメリカに特に多く存在します。ウィリアム・サローヤンアルメニア系)の『我が名はアラム』、ジョン・ファンテ(イタリア系)の『デイゴ・レッド』、チャールズ・ブコウスキー(ドイツ系)の『くそったれ! 少年時代』、サンドラ・シスネロス(メキシコ系)の『マンゴー通り、ときどきさよなら』などが僕は好きです(※)。

 隣国カナダに目をやると、主に移民の子どもたちを描いたガブリエル・ロワの『わが心の子らよ』(写真)があります。
 これも自伝的な作品ですが、上に挙げたものとは視点が異なります。自らの少女時代を題材にしたのではなく、教師でもあったロワが生徒との思い出を綴っているのです。

 どの国でも移民の生活は楽ではないでしょうが、カナダにおいても厳しい立場におかれました。
 ロワ自身はフランス系カナダ人であり、学校ではフランス語を学ぶことができなかったそうです(フレンチ・インディアン戦争に敗れたフランスは北米の植民地を英国に譲渡し、以後、フランス系カナダ人は経済的弱者となった)。

 しかし、それよりもさらに悲惨だったのは中・東欧(特にロシア)からの移民です。二十世紀はじめにヨーロッパから移民がどっと押し寄せ、カナダの人口は一・五倍に増加したといわれます。
 カナダの支配層であるイギリス系白人からすると、彼らは社会を混乱に陥れ兼ねない危険な存在であるため、差別や虐遇の対象となりました。

 また、そうした移民の多くは英語どころかフランス語も解さなかった。つまり、その子どもたちにとって学校とは、ふだん話している言葉が全く使えない異質な場所でもあり、今後生き抜いていかなくてはならない新しい世界の入口でもあるわけです。
 そんな多種多様な生徒と触れ合ったロワの経験は、文学にする価値が十分にある貴重なものです。

『わが心の子らよ』は長編として扱われていますが、実質的には六つの中短編からなる連作短編集です。各編は連続した物語ではなく、マニトバでの教師生活のなかで印象に残ったできごとを断片的に語っているといった感じ。したがって、登場する子どもは毎回異なります。
 主役の生徒は後半にゆくに従って、段々と年長になってゆきます。それとともに、生徒の抱える問題や「私」の立場が複雑になってきます(ラストの「凍てついた川のます」では「私」が十八歳で、メデリックは十四歳と四歳しか違わない)。

 にもかかわらず、日本版は原書で一番最後に収録されている「凍てついた川のます」を冒頭に持ってきています。そうせざるを得なかった事情があるようですが、理由が書かれていないので何とも気持ち悪い……。
 というわけで、この感想文では原書の順番通りに記載します。読書される際も、そうされることをお勧めします。

ヴァンチェント」Vincento
 初めて学校へやってきた小さな子どもたち。親と離れる不安から泣いたり暴れたりする子もいます。イタリア系移民のヴァンチェントは特に激しく抵抗します。
 馴染んだかと思うと反抗し、身構えると甘えてくるなど、小さな子の行動はベテランの教師にも読めません。ヴァンチェントとの出会いはよく覚えているものの、その後の彼のことを思い出せないのは、初対面の印象が強烈すぎたせいでしょう。

クリスマスの子」L’enfant de Noel
 クリスマスが近づくと、子どもたちは教師の「私」へのプレゼントを用意するのに大忙しです。そんななか、模範生のクレールは浮かない様子をしています。彼の家は貧しくて、先生にプレゼントをあげられないのです。
 大好きな先生に自分だけがプレゼントできないとなると、楽しいはずのクリスマスが嫌な思い出になってしまいます。「あなたの笑顔が一番のプレゼントよ」なんていわれても、子どもの気持ちは晴れません。高価である必要はありませんが、形あるものもやはり重要なのです。

ひばり」L’alouette
 ひばりのように歌の上手い少年ニル。彼の歌声は、腰を痛めて歩行する気力をなくしていた「私」の母を歩かせ、老人施設や精神病院の人々にも活気を齎します。
 ニルはウクライナからの移民で、ウクライナ語以外はほとんど話せない母親に歌を教わっていました。当然ながら生活は楽ではなく、悪臭漂う屠殺場近くの沼地に暮らしています。しかし、彼らのウクライナ語の歌は、意味は通じなくとも、人々の心に染み透るのです。

デメトリオフの息子」Demetrioff
 父親が革なめし工場を経営しているため、悪臭と色の黒さが特徴的なデメトリオフ家の息子たち。彼らはロシア語しか喋れず、父親の手伝いをするため長期で学校を休んでしまいます。「私」のクラスのデメトリオフは一見ぼんやりしていますが、実は大変な才能の持ち主でした。
 デメトリオフはカリグラフィに惹かれ、黒板にアルファベットを書き続けます。言葉の意味も分からず一心に打ち込む様は写経のようでもあり、芸術家のようでもあります。それをみた英語を知らない父親も、息子と心を通わせることができたようです。「ひばり」同様、言語を用いつつ本来の役目を果たしていませんが、それでも伝わるものはあるのです。

アンドレの家」La maison gardée
 アンドレは毎日十キロの道を歩いて通学します。しかも、家の手伝いが忙しく、勉強に身が入りません。雪が降ると、ほかの子は親にソリで送迎してもらうのに、アンドレはいつもどおり歩いてきます。やがて、彼は学校に姿をみせなくなりました。
「私」がアンドレの家を訪ねると、父親は出稼ぎで不在で、臨月の母親は寝たきりでした。アンドレと弟は、くたくたになるまで働いています。けれど、その晩、泊めてもらった「私」は、この家が幸せに満ちていることに気づきます。アンドレの家族がこの先どうなったか分かりませんが、家族が互いを思い遣ることができた頃が何より貴重なのかも知れません。

凍てついた川のます」De la truite dans l'eau glacée
 ファーストネーションの血を引く問題児のメデリックですが、きちんと話をすると乱暴なだけの少年ではないことが分かります。ある日、「私」は彼に誘われて源流に棲む、人を恐れない鱒をみにゆきます。しかし、余り歳の違わない教師と生徒がふたりきりで出掛けたことで様々な問題が生じてしまいます。
 この中編は、ほかの五編とは異なり、一足先に大人になった者と、今、正に脱皮しようとしている者という関係です。だからといって、姉弟でも先輩後輩でもなく、教師と生徒という立場は維持しなければいけないわけで、両者ともそれに戸惑う様子がリアルに描かれます。安易に恋愛やセックスに走らず、教師という職業の神聖さを維持した点にも好感が持てます。

※:ゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズも、ある意味、移民の物語である。

『わが心の子らよ』真田桂子訳、彩流社、一九九八

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