読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『マルタン君物語』マルセル・エイメ

Derrière chez Martin(1938)Marcel Aymé

 マルセル・エイメの『マルタン君物語』は、原書が刊行された翌年(昭和十四年)に早くも『人生斜斷記』(写真)の邦題で翻訳されています(鈴木松子訳)。
 江口清訳の方は、筑摩書房の「世界ユーモア文学全集」「世界ユーモア文学選」として刊行された後、講談社文庫に入りました。
 どれも古書価格に大差はないので、お好きな版を選ばれるとよいでしょう。

マルタン君物語』に収録されている短編にはストーリー上のつながりがないため、連作短編集とはいえませんが、無関係の短編を集めたいわゆる普通の短編集とも違います。
 どういうことかというと、九編中六編の主人公の名前が「マルタン」という、きわめて緩い結びつきが存在するのです。「すべて」ではないところが、いかにもエイメらしくて面白いですね。
 ちなみに、この本に収められてはいませんが、エイメの代表作といえる短編「パリ横断」の主人公のひとりもマルタンです。

 収録作品も頁数も少ない本ですので、サクッと感想を書いてしまいます。

小説家のマルタン」Le Romancier Martin
 作家のマルタンは、登場人物を必ず殺してしまうため、読者人気がなくなってしまいます。新作は、アルフレッド・スービロンという男が主人公で、彼は妻の母親(整形手術で若返った)に欲情するという設定です。すると、マルタンの前にスービロンの妻が現れ、「夫と母が関係を持たないようにしてくれ」と頼みます。

「壁抜け男」ならぬ、現実と虚構の壁を越えてしまう登場人物たち。といっても、実験的な小説のようなややこしさはありません。人が死ななければ本が売れるので出版社としても嬉しいはずですが、美しい義母に恋をしてしまった編集者が、アルフレッドが死ぬ結末を加筆してくれと頼むのが面白いです。

おれは、くびになった」Je suis renvoyé
 恐慌のせいで銀行を馘首されることになった中年男のアベルダーム。彼は、そのことを妻に伝える勇気が湧いてこず、街をぶらつきます。そこで娼婦を買い、ホテルへゆきますが……。

 どの時代、どの国を舞台にしても成立しそうな短編です。エイメらしい奇妙な設定を封印しているため、自暴自棄になったアベルダームの遣る瀬なさがズシンと胸に響きます。

生徒のマルタン」L'Élève Martin
 トイレで用を足していた四人の生徒のうちのひとりが壁に卑猥な落書きをします。生徒監のエスキュエルは、マルタンを疑いますが……。

 設定は犯人探しのミステリーですが、推理が行なわれるわけではなく、証拠もないのにマルタンを犯人と決めつける生徒監と、それに抗議する担任の教師の口論が描かれます。ただし、担任は生徒監が嫌いなだけで、マルタンを信用しているわけではないことが最後に分かって、笑いが生まれます。

死んでいる時間」Le Temps mort
 一日おきに存在しなくなってしまうマルタン。アンリエットという恋人ができますが、やがて彼女はマルタンのいない日に浮気をするようになります。

 はじめのうちは存在しない日を憎むマルタンでしたが、恋人に裏切られてからは存在しないことを望むようになります。結末は「壁抜け男」に似ています。

女房を寝とられた二つの肉体」Le Cocu nombreux
 浮浪人はある村で、女房に逃げられた男ふたりに出会います。ふたりとも同じ女と六年も結婚していたらしいのですが……。

 種明かしはしませんが、よくぞこんなヘンテコなことを考えつくものです。素直に感心します。

マルタンの魂」L'Âme de Martin
 妻とその両親を殺したマルタンは、その直後、魂が体を離れてゆくのを感じます。だから、その後に無関係な男を殺しても、それは罪に当たらないと考えます。

 魂のないマルタンには恐れるものなどありませんが、処刑場でとんでもないことに気づきます。それが凄まじい恐怖を齎すのです。

エヴァンジル通り」Rue de l'Évangile
 アラブ人のマルタンは、パリの路地で暮らしています。皆から馬鹿にされ、ときどき施しを受ける彼は、ある日、女房に色目を使ったとしてレストランの主人に追い出されてしまいます。そんなマルタンの唯一の楽しみは……。

 人間の生活といえない惨めな暮らしのなかに、ささやかな喜びを見出したマルタンでしたが、それもすぐに奪われてしまいます。本当に貧しいのは、彼を虐げる人々ではないでしょうか。

クリスマスの話」Conte de Noël
 不真面目な部下のモリヤールを営倉送りにした曹長は、その日がクリスマスで、モリヤールを待っている女性がいることを知り、外出許可を得てあげようと連隊長に相談します。

 クリスマスらしい温かなお伽噺です。部下には分別を、曹長には天国の花を。

銅像」La Statue
 死んだと思われて、銅像が作られた発明家のマルタン。しかし、人々は銅像にもマルタン本人にも関心を示さなくなり、やがては忘れ去られてしまいそうです。

 忘れられるという恐怖、そして忘恩への憤りを覚えるマルタンでしたが、「誰でもない者」になってみると、その方が楽に生きられることに気づきます。人から認められたいという欲求は誰にでもありますが、それが幸せに結びつくとは限りません。

マルタン君物語』江口清訳、講談社文庫、一九七六

→『おにごっこ物語』『もう一つのおにごっこ物語』マルセル・エイメ